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哲学に対する罵声「あんた、なに言ってるの?」(エスキス#1)

哲学に対する罵倒、「あんた、何言ってるの?」を真面目に考えなければならない。

哲学が、言語的論証から離れ、真理の把握のための新たな手段として文学を採用したとき——ブランショにはじまり、デリダ、ナンシーへ—哲学はひとつの終着点に至った。

しかしそれは、「至らなければならなかった」と言ったほうが良い。

それは、言葉への不信ではなく、言葉の規則=言語への反抗であった。彼らほど、言葉によってものを考え、言葉によって新しい認知を生み出そうとした哲学者はいない。

彼らはもっとも根本的な言葉、「これ」「あれ」「そこ」「ここ」「だれか」といった言葉に頼る。もしも、言語の規則がすべて偽りであり、分節化の結果であり、さびついているとしても、これらの原始的な言葉は、なにか神的なものへのつながりをまだ有しているのだと、彼らは考えたに違いない。

原始的なことばを、通常の規則から自由に、組み合わせ、戦わせることによって、この世界には存在しない言語的イメージ、言語的空間を生み出した。

人間の世界でも、神の世界でもない、だれのものでもない言語それ自身のための空間、そこにおいて、人間を超えたものの認識の可能性を探った。

人間的でないというのが、彼らの一番大事な部分であった。それは歴史的な原因もあるだろう。

いまや、人間は、人間的でないもの=失語症を通り抜け、ふたたび言葉を手にして、人間的なものになる必要がある。そのために誂えられた、新しい人間のための言葉が必要だ。

もしこのまま、だれのものでもない言葉によって営まれた哲学的思索が、中に浮いたまま、歴史が進むなら、人間は、自らが手にすることのできる言語を失ったまま、動物のように地上を這うだろう。いや、それはすでに現実である。

その責任は哲学にある、文学にある。いま、哲学を担ってる人間、文学を担ってる人間に。

最後の審判は近いだろう。

「あんた、何言ってるの?」

哲学に浴びせられた、この罵声を、吃音に陥った人間の嘆きとして聞かなければならない。救済のための言語を真に求める、倒錯した祈りとして聞かなければならない。神への侮辱——「ちくちょう」が一種の祈りであるなら。


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