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原罪を取り戻せ!!(エスキス#3)

人間が罪深いということは、アダムとエヴァの神話を参照せずとも、歴史を見れば自ずから判明する。むしろ、順序は逆だったのだろう。歴史的世界における人間の罪深さの経験が、ヘブライの宗教的教理に抽象化されたのだろう。

アダムとエヴァが食べたりんご、りんごを食べることの罪。それはきっとパスカルが「クレオパトラの鼻」と名指したものと同じだろう。対象を名指すことでしか明らかにならない、人間の奥深くに隠された欲動、ドロドロした、マグマのような、それでいてそれが噴出したとき、社会から「下品」と批判されるもの。「いい女だ/男だ」と人間の口を働かせるもの。

マグマのような欲動が、歴史の中に姿を現し結晶した、そのあられもない姿をぼくたちは知っている。原罪が地表に噴出したとき、それは目を覆うばかりの悲惨な歴史を次々に形作っていったのだ。

原罪を——欲望を——管理する必要がある。それが社会の秩序を作っていったはずだ。みなが欲望のままに1日1日を営むなら、生産の効率は下がってしまい、社会を再生産・維持することが不可能になるから。

しかし、巨大化した社会が——つまりその一番上に立っている人間が拠って立つものは、その最も下に位置する人間とまったく同じなのだ。それは「クレオパトラの鼻」に他ならない。確かな物質的基盤を持った人間の「クレオパトラの鼻」への欲求が、その下のものたちの「クレオパトラの鼻」をへし折っているにすぎない。

ぼくたちの「クレオパトラの鼻」は完膚なきまでに折られている。お偉いさんが毎日召し上がる「フカヒレスープ」を生み出すために、完全に管理された社会の一員は、スーパーでシャウエッセンを諦めなければならないのだ。街中で「リンゴが美味しい!!」と叫んではいけないのだ。吊り革に捕まって、下を向いて、誰かに「クレオパトラの鼻」を咎められないようにじっと耐えなければならないのだ。

ぼくたちが失った「クレオパトラの鼻」は、生きる喜びでもあるはずだ。いまや、原罪の価値転換を試みる必要がある。

初期ルネサンスの画家、マザッチョは、楽園追放の恐ろしい表象を作り上げた。人間の肉体が、無情な光——神の刑罰!——にさらされながら、永遠の苦しみの中に足を踏みいれるその瞬間。エヴァが泣き叫び(きっと「いやだ!」と言っている)、アダムは罪を自覚し、自責の念に駆られるように、右手を額に当てている。

アダムとエヴァが足を踏み入れた地上の世界——地獄は、いまや天国に変わった。この世界では、もやは、聖人しか許されないのだから。そんな世界がなぜ、地獄だろうか? いま、テレビの画面を独占しているのは、紛れもなく天国の住人たちだ。そこではどんな罪も、どんな過ちも、どんな恥も存在しない。「完璧で究極のアイドル」たちの住まいだ。

ぼくたちは、そこから逃げなくてはならない。少なくともぼくは、聖人ではないのだから。罪を背負って生まれてきたはずだから、りんごでも食べて、楽園追放されよう。それが、与えられた命に、誠実であるということだ。その先が、たとえ「地獄」でも。

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