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闘病記#6 父と母と弟と私

手術は5月1日。
その前日から入院となった。

弟が病院まで送ってくれることになった。
弟は私の2歳年下である。

弟は、私とは正反対の性格で、
小学生の頃から、イタズラをしては母親が職員室に呼び出されるみたいなことが、たびたびあった。

友達関係は幅広くて、人気者だった。
また、担任の先生のキャラクターによって、弟の評価がよくなったり悪くなったりもした。

一方私はおとなしくて、ぼうっと生きてるだけなのに、その佇まいがなぜか大人には「しっかりしている」と思わせた。
友達は少なく、暇さえあれば絵ばかり描いていた。

もし、姉弟として生まれてなくて、クラスメイトみたいな関係で弟と出会っていたら、絶対に友達にならないと思う。

けど、お互い漫画が好きで、お互いが持ってる漫画はなんとなく読み合ってるみたいな、適度な距離感があった。

周りを見渡すと、親戚とか友達とかに割と女兄弟を持つ人たちがいて、一緒にショッピングしたりとか、仲良しでいいなあって思う。

しかし、今回の病気の件では、本当に頼りになって、弟がいてよかったなってしみじみ思った。
困った時に助け合える、そういう関係性を築けていた。

病院へは、10時までに入ることになっていた。
しかし、それに間に合うには、あまりに早く迎えに来てもらってしまった。

どうやって時間を潰そうか考えて、せっかくだからアルコール依存症で死んだ父親の墓にでも寄って行こうということになり、お墓へ向かった。

お墓には、父親の死んだ日が刻まれている。
平成7年3月の中旬のことだった。
世間では某宗教組織の事件で大騒ぎになっていたが、私たち家族は、テレビに視線を向ける気持ちの余裕はなかった。

父親のアルコール依存は、母との結婚前からだったらしい。
結婚前には母親は気づかなかったようだ。
父親が自助グループに行っていた時の手記にそんなことが書いてあった。
私が5歳の時に、母親が一度我慢しきれなくなって、3人で家を出た。
だけど数ヶ月してまた一緒にくらした。
結局父親のアルコールは止まらなかった。

両親が離婚したのは、私が中学1年のとき。
私が母親に、「もう辛くて仕方ない」と言ったことがきっかけだった。
市営住宅を夜逃げ同然で出て行った。

父親は一人、そのまま市営住宅に住み続けた。
月日は流れ、私が大学1年であった平成7年。

想像も絶するようなゴミ屋敷の中、父親は一升瓶を抱えたまま脳卒中で死んだ。

それは、警察からの電話を私が受けたことで知らされた。

電気もガスもない、暗くて寒いゴミ屋敷の中、おそらくゴミ捨て場で拾ったであろう灯油式ストーブに火を灯して(ストーブが何台も何台も狭い部屋に置いてあった)、遺体となった父と過ごし、それなりに弔い、荼毘に付した。

母親は、弟が墓守をしていくものとして、父親のお墓を作った。

「私も同じお墓でいいんだ。死んだあとの骨の場所なんて気にしないから。」
母の言葉に、そんなもんかとも思ったが、アルコールをやめられなくて家族を苦しませた父親と同じお墓に入っていいなんて、よくそんな心境になれるものだとも思った。

過去に母親に、なんで一度家を出た時に離婚しなかったんだ?と聞いたら、「あんたがお父さんお父さん言うのがしのびなかった」と言っていた。
そして、2回目の家出は、私が辛いと言ったことがきっかけである。
2つを並べると、一見、私の意見を尊重してくれたような気もするけど、なんだかモヤモヤしていた。
夫婦関係の責任みたいなものを私に押し付けてるようにも感じた。

私はその後、息子の癇癪をきっかけにカウンセリングに通うようになり、最近ようやく自分のことを整理できるようになってきた。
その過程の中で、「お母さんって実は離婚した時、下手したら今も、お父さんのことが好きなのではないか?」という仮説が生まれた。
そうすると、同じ墓に入るのを厭わないことにも合点がいくし、5歳の私を理由に同居を再開したことも、離婚を決意したのが私きっかけだったことにも腹落ちする。

このことに気づいたのは本当につい最近のことだった。

田んぼが大きく広かった田舎道が市内の東はじへ続き、少し小高い山にぶつかってお寺がある。
お墓はその山の登り口にあり、田んぼを挟んで市街地を遠くに見渡せた。

特にお花もお線香も持参したわけではない。
弟とふたり、めいめいに手を合わせた。

「お父さーん!私のこと守ってね!」
声に出して、手を合わせた。

弟が、
「自分の体でさえ酒で守れなかったのに、守ってくれるかねえ!」
みたいな冗談を、言った。


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