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(ほぼ)100年前の世界旅行 ベルリン 9/5-11

スイスで家族経営のリゾートホテルに滞在し、自らの金谷ホテルでの家族経営に自信を深めた金谷眞一。次に向かうベルリンでは、金谷ホテルの設備充実に多大な協力をしてくれた人々を訪ねます。

サンモリッツ〜ベルリン

美しいスイスを離れがたい気持ちでスブレッタハウスを出発し、まず汽車でロールシャッハへ。ドイツ国境リンダンへの汽船への乗り換えに迷っている眞一に突然日本語が聞こえてきました。
「この汽車は桟橋に参りますから、あなたはこの汽車を降りなくて良いのです。」
美しい日本語の声の主は、眞一が礼をいう間に立ち去り、船に同乗した婦人が、あの紳士は神戸に20年ほど住んでいたらしいと教えてくれました。
リンダンでは当初予定のミュンヘン経由をやめて、ベルリンに直行することにし、翌朝ベルリンに到着。

立派!

アトランティック・カイザーホフホテルの、広いバスルーム付きの部屋に落ち着きました。サンモリッツのホテルからの紹介状を持参したおかげか、翌日には支配人のカウフマン氏がホテルを案内してくれました。

シーメンス社訪問

眞一がベルリンでまずしたことは、シーメンス社の重役、ケスラー氏への連絡です。ルクセンブルクの別荘に出かけていて留守でしたが、部下のライス氏と連絡がつき、翌朝9時に迎えの車をよこしてくれ、ライス氏、ケッテル氏、その部下のローエ氏らと再会を喜びました。4万2千人が働く工場を見学し、夜は皆でカイザーホフホテルで会食しました。

金谷ホテルとシーメンス

シーメンス社は、金谷ホテルの水力発電所建設という眞一の一大プロジェクトのパートナーでした。1896年(明治29)18歳で父のホテルを手伝い始めた眞一は、箱根富士屋ホテルが敷地内の滝を利用した水力発電所を備え、館内に電灯を灯しているのをみて、いつかは金谷ホテルにも欲しいと考えていました。1893年(明治26)に日光発電所が電力供給を始めていましたが、不安定だったと言います。しかしライバルホテルが増えた苦境をなんとかしようと手伝いに戻ったぐらいですから当然資金はありません。まずは貯金を始め、自分で発電所の場所選定に取り掛かった、という地道さがいかにも眞一らしいところです。

一方、1847年創業のシーメンスは、電信機の製造から始まり、電力、運輸など革新的な技術を次々開発していました。日本進出は当初商社や代理店経由でしたが、代理店契約が切れた1893年(明治26)正式な直轄の東京事務所を開設、1887年から日本に派遣されていたヘルマン・ケスラー氏が技術管理・商業管理の両方を統括しました。業績はめざましく、甲武鉄道、八幡製鉄所などの電化プロジェクトを受注しています。そのシーメンス日本の社員・ケッテル氏がなんとある日金谷ホテルにやってきたと言います。重要パートナー古河鉱業の日光精銅所を訪ねたのかもしれません。ちょうど、眞一が発電所設置の場所選定を完了した頃でした。そこでさまざまな助言を得て、1907年(明治40)いよいよ75馬力の発電機をシーメンスから買うことになりましたが、やはり資金が足りない。。。率直に打ち明けたところ、半額の前金で工事に着手し、残りは電気がついたら支払う、という寛大な条件を出してくれました。同年統括職のケスラー氏は離日(その後本社で日本事業統括)しますが、約1年の工事を経て無事発電所は完成。これにより電灯だけでなく、スチームを利用した暖房や客室のシーツやリネン用のランドリーも整えることができました。眞一は29歳になっていました。

この発電所があった場所は、その後真一の次女・雪子の静養先「松屋敷」となり、「金谷畜産部」として牛を飼い、ホテル用のミルクやバターを作った場所です。現在も「松屋敷」の庭園内に設備の一部が残っています。

この坂の下に、発電所の小屋がありました(著者撮影@松屋敷)

また、シーメンス製の発電機は、1950年代以降まで現役で活躍したのち、現在東京電力「電気の資料館」で展示されています。知りませんでした。

後日談

発電所建設から何年もたった頃、一人のドイツ人が金谷ホテルに泊まりにきました。彼は電気設備についてあれこれ質問し、ぜひ見せてほしいといいます。眞一は案内してその丈夫さを誉めました。何か不備はないかと問われたので「しいて言えば、避雷の碍子に幾分かヒビがあるが大したことは無かろう」と答えました。すっかりそんなことも忘れていたある日、シーメンスから大きな荷物が届き、「避雷用碍子の交換をして、古い方は送り返してほしい」と手紙がついていました。あのドイツ人はシーメンスの覆面アフターサービス係だったのです。ベルリンでのシーメンスの面々との会食の際眞一はこの話をして、「そんなことをしていて儲かるのか」と聞いたと言います。答えは「それがシーメンスのやり方だ」でした。極東の小さなホテルに売った1台の発電機にまで目を配る堅実さに、眞一は感じ入りました。

ライオン像

なんとも雄々しく、悲しげな像です

ベルリン市内や郊外のポツダム、サンスーシ宮殿にも足を伸ばし、名所はもれなく観光した眞一ですが、ティアガルテンのこのライオン像が特に印象に残ったようです。瀕死の雌ライオンに寄り添う二頭の仔、彼らを庇うように立つ雄ライオンの家族像に、前年亡くした愛妻ミチと自らを重ね、日本にいる花子と雪子の二人の娘に思いを馳せたのでしょうか。珍しく眞一の寂しさが伺われる記述です。

ドイツ大使 

この旅行に出る前、眞一は駐日の各国大使館を手続きなどのために訪ねていますが、ドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフ氏からは特にドイツでのホテルの紹介状などをもらっていたことが日記からわかります。

Wikipediaより

この旅行記のXの投稿(@shinkanaya) をご覧になった方から、ゾルフ大使は「中禅寺湖の鱒釣クラブ」の会員だったと教えていただきました(ありがとうございます!)。1924年(大正13)に設立された「東京アングリング・アンド・カントリークラブ」のことと思われます。同クラブと眞一は直接の関係はありませんが、会員たちが金谷ホテルに泊まったり、趣味の釣りを通じた以前からの知り合いだったからのご親切だったのだろうと推測できます。そうしたご縁が眞一の一人旅を助けていたのですね。

この頃のドイツは敗戦直後で決して豊かではありません。観光地には物乞いが多く、案内人や店員は隙をみれば勘定を誤魔化し、ホテルやトーマスクックでも、日本での働き口はないか、と何度も頼まれています。以前は日本人の方が海外に行こうとしていたのに、ずいぶん様変わりしたものだ、と眞一も驚いていますが、逆に活気があって復興は早いかもしれない、とも日記に書きました。

そんなドイツの次は、オランダ、ベルギーを通ってパリに戻り、南仏へ向かいます。

参考文献:
金谷眞一「ホテルと共に七十五年」昭和29年 
常盤新平「森と湖の館」潮出版社 1998年

*松屋敷は一般公開しています。詳細はHPで。

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