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LGBTと生産性 

「同性婚」

大学までは、 

「一刻も早く制度化してほしい。」

「社会人になったら運動でも参加しようか。」

そんな風に思っていた。   

だが、社会人になってからというもの

「同性婚ねぇ、どうでも良いかぁ」  

そう思うようになった。 

この変化はどうして生じたのだろう、、、。



会社に入って、社会に出て、すぐに気づいた。 

「私は仕事が苦手なのかも知れない」 

と。 

溌剌とした同期に囲まれ、先輩はもちろん、同い歳、年下の人達から、 
いつも何かを与えてもらうばかり。 

「何がそうさせるのだろうか、、、」

「ただの自分の思い込みなのだろうか、、、、」


一般的な「サラリーマン」に自分は向いていないのかも知れない 

私は次第に、そう思うようになった。

そう思った時 

「自分は社会に対して、何か生産的な活動ができているのだろうか」 
そういう疑問が湧いた。 


組織を動かすリーダーになる気もない 
ただ自分の生活を保ちたい 
それなりに暮らしていければ良い 

こんな思いでやっている仕事 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

同性同士で子孫を残すことは、簡単では無い。 

それならば、社会で活躍できる人間になって、誰かに何かを与えたい 

そう思っていた自分が、まさかここまで 
「仕事が苦手」な奴だとは思っていなかった。 


大学の頃まで抱いていたあの感覚。 
同性婚に対する強い意識。 

働き出してから、そういったものが、みるみる削がれていった 

その裏にあるものは、 
「自分は社会のお荷物なのでは無いか」   
そういう、自己否定的な感覚なのかもしれない。


「人権」の観点からいえば、 
仕事の能力なんてもの、  

そんなものはどうだって良いんだ。 


けれど個人の感覚としては、

「社会を回すこと」 
「次世代に子を残すこと」   

これが大人としての役割だと思ってしまう。

ゲイをカミングアウトした、  
スポーツ選手 
IT企業のCEO    
周りのシゴデキゲイ達

こういう人達に憧れて、 
こういう人達にならなければ、私に価値は無い。   

そう思って、 
「組織で生産的な活動をしなければ」 
と躍起になる。

でもこの思想は、
「生産的でないと判断した人を見下し、差別する」

だからこの考え方を消し去りたくて、 
でも、働けば働く程、この考え方に支配されて

出来ない自分に対する、劣等感 
自分の属性に対する、嫌悪感 

自分に当てはまる特徴を、 
拡大解釈して捉える事から生じる、偏見や差別

そしてその偏見や差別の矛先は、自分に向かう。

自分で首を絞めている。


いつかこう言った呪いから解放されるその日まで、 
僕はゆっくり待っていたい。 

生活を淡々とこなしていこう。 

休日に楽しいことをしよう。   

今日は土曜日。

ギターを弾いて、温泉にいこう。そのあとはカラオケに行こう。 


書き始めは鬱々とていた気持ちが、ふわっと軽くなった気がする。  

おっ、今日もいい感じ♪

思い悩まなくてもなんとかなるさ。  




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