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殺されるかもしれないと思っていた話  

私はつくづく運の良い男だと思う。   

旅行の時は大抵晴れること
周りの人には恵まれていること
大病をしていないこと
骨折もした事がないこと
なんだかんだで、ここまでやってきていること
日本に生まれて来たこと。

「国が違えば殺されていた」 

そう、日本に生まれて来ただけで幸せだ。   

他国に目を向ければ、ゲイの男性に対する暴行事件や、厳しい法律は未だなお残って居る。  

ロシアでのゲイ男性に対する集団リンチ。俗にいう「ゲイ狩り」や 、 
イスラム教国を中心とした「鞭打ち刑」、「死刑」など。  


日本でも今後、これらが絶対に起こらない可能性はない。   
マイノリティが社会の波を作り出すことは難しい。  
社会の波を作るのは、いつだってマジョリテだ。  


そう考えた時、私はとてつもなく無力だと感じた。 

「国が違えば、殺されていた。」 


日本では、 
「殺される」までは無いとしても、また元のような時代に逆行する事だって十分にあり得る。 

だから私は差別の加速や、死を想起してしまう時がある。

考えすぎなのは承知である。 
だか、考えてしまうタチなのだ。仕方ない。


これまでは、漠然とただ不安に駆られて 
「もしそうなったらどうしよう」 
に怯えていた。
しかし、noteに日々の想いを書き溜めていくにつれ、そう言った不安が軽減されていった。

どんな形で我が身が滅びても、 
意思は文字として残り続ける。  
ここまで書き留めてきたことが、合っているのか間違っているのかは分からない。 
が、その時その自分が思っていた、率直な考えである事には間違いない。    

私は親友に、noteの存在を教えてある。 
もしも、不慮の事故で亡くなったら、私の周りの大切な人にこの存在を教えて欲しいと伝えてある。

私がおじいさんまで生きて、亡くなった場合、、、。
きっと、この文章達は、 
SNSという大海原に彷徨うひとつの砂として埋もれていくだろう。 

それでもいいのだ。
それでも、自分の意思を残し続けることができるという行為自体に私は安心する。

だから自分の頭が思考を巡らせる限り、 
自分の感情が揺れ動く限り、 
今後もnoteを書き続けていくだろう。





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