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透明な沈黙


✳️この記事は2021年8月に書かれた記事の再投稿となります



「沈黙の哲学者」ウィトゲンシュタインの言葉のフレーズが「新世界・透明標本」の妖しくも美しい世界と重ね合わさる不思議な1冊。意外な相互作用にしばし黙考してしまった―。



帯にはこのようにある―。

20世紀最大の哲学者と、永遠の生命を与えられた美しき生物たちとの、真理と生の結実

もちろん、どう感じるかは読者に委ねられているが、僕は面白かった。すべての意味を掬い取って味わうまでには至らないが(それは追々感じられるものとなってゆくだろう)、かれこれ15年以上前、自分の「感性優位」のスタンスに「ロジック」を加味しようと様々な哲学書やらを読み漁っていたときにブックオフで見つけたのが本書であったが(結局、人の「性質」は基本変わることはなく、「論理」をロジカルにではなく「感性」で受け止めてしまっている自分に気づき、そこが自分の「持ち味」なのだ、と妙に納得して落ち着き、現在に至ってしまっているが)、何故かしっくりくる内容だったのだ。この本がきっかけでウィトゲンシュタインをもう少し知りたいとも感じることができて、図書館で借りたり、面白そうなのでブックオフでさらに購入した本もあった。それは「ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎」という長いタイトルのものだが、ミステリータッチで(もちろんノンフィクション)一気に読めてしまった文庫本だった。タイトルからして一体どれほどの激論がなされたのだろう―と期待(?)してしまうが、事実はどうやらもう少し穏やかなようである(「火かき棒」を振り回したことは事実のようである)。

ここでルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)を取り上げたのにはもちろん理由がある。それは主に音楽的理由である―。

ウィーンで生まれた彼は「音楽的」に恵まれた環境にいたと、僕には思える。彼の父が製鉄業で莫大な富(ロスチャイルド家に次ぐ国内で2番目の資産家だった)を築いたこともあって多くの芸術家(ロダン、ハイネ、クリムトなど)との交流があった。音楽関係者も同様で、噂では広い豪邸(宮殿)にウィーン・フィルを招き、演奏させたことがあったらしい(グランド・ピアノが7台あったそうだ)。ちなみにブラームス/クラリネット五重奏曲の初演が行われた場所でもある。母はピアニストでブラームスやマーラー、指揮者ブルーノ・ワルターとの親交があり(彼らと連弾を楽しんだらしい)、祖母の兄弟は19世紀最大のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに、叔母は当代きってのピアニスト、クララ・シューマンの父フリードリヒ・ヴィークと一緒にレッスンを受ける関係にあったという。

兄であるパウルもピアニストだったが、よく知られているように戦争で右腕を失えど、左手だけで弾きこなす技術を開発、ピアニストとしての道を歩み続けた。独自のレパートリーを開拓しつつ、22人の作曲家に37曲あまりの左手用の作品を委嘱した(それができたのも莫大な富のおかげだろう)。もっとも有名なのはラヴェルの作品だろう。両手のためのピアノ協奏曲と並行して書かれた「左手のためのピアノ協奏曲」。結果的に「左手」が先に完成したが、あまりの難技巧のために、依頼者のパウルは完璧に弾きこなせず、あろうことか勝手に改変して演奏してしまった。このことがきっかけとなり、ラヴェルとの仲は決裂することになってしまう(後に和解)。

ただ、こうした態度はどうもラヴェルの作品に限ったことではなかったらしい。作曲家たちにとっては自己優先が過ぎた扱いにくい人物であったことが伺えるが、これはおそらくパウルの人格の問題だけではなく、きわめて裕福なウィトゲンシュタイン家の家風に起因していることは容易に想像がつく。

調査によると、ルートヴィヒ自身も家族の中ではクラリネットを演奏した、と伝えられる。30代のころに学び、作曲も試みているそうで、そのフラグメントもノートの中に見出せるという。なんと絶対音感を有していたという情報もある。彼はブラームス以降の現代音楽を認めなかったようだ。「音楽はブラームスで終止符を打った」と友人に語ったと伝えられる。

自身の著作のなかでも音楽についての言及や比喩が多数見られることから、プライベートで音楽が重要な位置を占めていたことは疑いない。「雑想」のなかで、ウィトゲンシュタインはしばしばメンデルスゾーンとブラームスを比較し、両者とも親近性を感じるが、前者には厳しさが欠如しており、後者には思想の強さがあるとし、ブラームスは誤りのない(完全な)メンデルスゾーンであると述べる。そして興味深いことに自分はメンデルスゾーン的傾向があると述べるに至るのだ―自身が「ユダヤ人」という共通性を越えたところでシンパシーを感じていたのではないだろうか―。彼はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、特にその第2楽章を高く評価していたという。


何よりも「ウィトゲンシュタイン自身」が芸術的気質を身に着けた人物であることが周囲の人々の証言からわかる。哲学者バーナード・ラッセルは彼を当初快く思わなかったものの、次第にその見方が変化していった、と述べ、さらにこう語る―。

ウィトゲンシュタインは(…)私の人生で最もエキサイティングな知的冒険の1つでした。(…)彼は火のような情熱と緊急性と並外れたレベルの知的純粋さを持っていました。(…)彼の体質は芸術家の体質であり、直感的で気まぐれです。


哲学以外にもウィトゲンシュタインは、彫刻や建築などにも携わったことがあった。有名なのは彼の設計によって建てられた住宅だろう。姉のために作られたというその邸宅は真っ白な外観、室内も余分なものが全く見られない後年の「ミニマリズム」を思わせるモダンな建築で、ドアノブや窓、暖房の位置や部品のような細部にまで偏執的にこだわり(極端なまでにシンメトリーを追求した)、1ミリの誤差も許さなかったと伝えられる。壁の塗料の配合まで指示があったという。傑作なのは、出来上がって掃除を始めようとした矢先、高い天井をさらに3センチ上げるように求めたことだ。大工も大変だったに違いない―。

ハウス・ウィトゲンシュタイン


時期は前後するが、ウィトゲンシュタインは機械工学の研究に携わったなかで、航空学に関心を持ち、ブレードの端に小型ジェットエンジンを搭載したプロペラの設計に取り組み、特許を得たこともあった。その発明は現代のプロペラ機のモデルとなったそうだ。



超裕福なウィトゲンシュタイン家において「闇」の部分があるとすれば、それは「自殺」の多さだろう。
4人の兄のうち3人が自殺し、ルードヴィヒもその衝動と向き合わなければならなかった(前述のラッセルとの出会いが、「一線を越える」ことの抑止力の1つになったようだ)。その理由は不明である(時代的な風潮も関係していたとされる)。並外れた裕福さが背景にあるのだろうか―。人は様々な理由で自ら死を選ぶ場合がある。底なしの貧困から、ということもあるだろう。誰しも憧れる裕福さが必ずしも心の隙間を埋め、幸せをもたらすものではないらしい。「人並の生活」とはよく言ったものだ―。

「自殺」は道徳的倫理的な面で忌避されるべきものだが、「哲学的命題」として依然として残っていると思う―。僕たちは自ら「望んで」生まれてきたわけではなかった(ほとんどは「望まれて」生まれてきたことだろう)。真っ白なカンバスのような状態(ジョン・ロックのいう「タブラ・ラサ」)で僕たちはこの世に生を受け、人生という「カンバス」に絵筆を振るってきたのだ(他者の手による場合もあるし、人知を超えた存在によって、という場合もあるだろう)。そんな僕たちに存在している「究極の自由選択」という意味合いにおける「自殺」だ。哲学者だけではなく、多くの作家や映画監督なども作品の締めくくりとしてこの手段を採用してきた。エピソードからその「結末」しかないと思わせるものもある。僕たちは疑似的に、自らの中でこの行為を繰り返しているのかもしれないし、あるいは映像の中で「代行」させているのかもしれないのだ―。その点ブラームス / ピアノ四重奏曲第3番もそうかもしれない―彼は楽譜の表紙に「ピストルを頭に向けている男を描けばよい」と述べたという。ウィトゲンシュタインがこの作品を好んでいたというのは偶然だろうか。




彼の哲学については詳細は触れない―。膨大なページになるだろうし、幸い僕は解き明かすほどの鋭く卓越した知性を備えていないからだ(「素人」の強みである)。ただ、通俗として生前に出版された唯一の哲学書「論理哲学論考」(1921)に代表される「前期ウィトゲンシュタイン」と呼ばれる時期と死後にまとめられた遺稿「哲学探究」(1953)に代表される「後期ウィトゲンシュタイン」と呼ばれる時期があることには触れておきたい。前者では「語りえないことについては、沈黙するほかない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.)があまりにも有名で、一人歩きしている感すらある。命題7の書物の掉尾を飾る言葉である。今回の本では次のように紹介されている―。

およそ言い表し得るものは、すべてはっきりと言い表すことができる。そして語ることのできないものについて、人は沈黙しなければならない

後者では「言語ゲーム」が有名である。極めて幼稚な例えで言えば、「それ」とか「あれ」で会話やコミュニケーションが成立してしまう現象のことだ。ウィトゲンシュタインは言語のシステムに深く探りを入れ、世界を解き明かそうとしたのだった。現代の「言語哲学」の中の「分析哲学」の基礎となった最重要な哲学である。

一般的に両者は「言語」を扱う共通性を除くと、その内容は互いに反発する関係性にあるとされる。人によっては同じ人物が書いたとは思えないほどだという。しかし今回の本の訳者である鬼界彰夫氏によれば、1993年に初めて公開された「日記」によって、両者の間に存在するとされていた巨大な隔たりやその要因となった変化が「ものの見方」の変化ではなく「生き方」の変化であり、全貌を理解する上では互いに補完し合うものであったことが明らかになったことを「あとがき」で述べている。

僕が興味深いと思うのは、言語を必要としない哲学が存在する(できる)のだろうか―ということである。かつての哲学が非常に専門的で時に分かり難く(もちろん僕の勉強不足もある)、見解が分かれてしまうのはその「ロジック」に原因があるのではなく、「言語システム」そのものにあるのでは―と思うのだ。

では、物理的な音の連続性で成り立っている「音楽」についてはどうであろうか―。

(音楽と哲学とは違うことを承知の上で語っている)

言語より抽象的だろうか?
メッセージは等しくリスナーに届くであろうか?
一概には言えない。
でも言葉では表現できないものを音楽は伝えてくれないだろうか?
もしかして言葉より上手く、より深く、心に染みわたる仕方で働きかけてはこないだろうか―。

言葉の素晴らしさと恩恵に感謝しつつも、言葉より雄弁なものが確かに存在することも嬉しい事実だ。

「沈黙」もまた、音楽や言葉より雄弁である―。



今回の本のもう一人の「主人公」について取り上げなくてはなるまい―それは「透明標本」である。

そもそもは観賞用ではなく、分類学や比較解剖学などの分野における、小生物の骨格観察のための技術であった。一般に硬骨をアリザリンレッド、軟骨をアルシアンブルーで染色し、筋肉を含む軟組織(つまりはタンパク質)を専用の溶液によって化学変化させ透明化する。X線による撮影よりも鮮やかで立体的に観察できるという。これを「アート」として捉え、独自の活動をしているのが「透明標本作家」の冨田伊織氏である。大学時代に「透明標本」に出会い、その独特で妖しくも美しい姿に魅せられたという。ある種の不気味さが感じられるのも事実であるが、それは一時的なものに過ぎない。やがて目が(感覚が)慣れてくると、その色合いや骨格が綾なす美しさにますます魅せられてゆくことになる。そこにウィトゲンシュタインの含蓄のある言葉が加わる―。これらのコラボレーションに違和感を感じるか、「アウフヘーベン」を試みるか、自然と同調できるかは、その人次第だ。僕としても、両者が常に合ってるとは思わないが、見るタイミングで感じ方が異なるその僕自身から生じるリアクションを楽しみたいと思う。


記事の最後に、印象に残ったフレーズを紹介したい―現時点での感想であり、この先同じようなシンパシーを抱くとは限らないが。

言葉とは、深い水の表皮のごときものである。

「草稿」 (1914-1916)


我々は自分の皮膚の中に捕らわれている。

そして私がしなければならないのは、想像の中の他人に耳を傾けることではなく、自分自身に耳を傾けることである。

私はどんな決定のとりこにもなりたくない。ただし決定が私を捕らえた場合は別だが。

ブラームスのオーケストラの響きの色は、道標の色である。

「哲学宗教日記」(1931)


世界と生は一つである。

私の言葉の限界は、私の世界の限界を指し示す。

哲学は、語りうるものをはっきりと描き出すことによって、語りえぬものを指し示すだろう。
                            「論理哲学論考」(1921)


宗教とはいわば、もっとも深い静かな海底である。上方で海面の波がいかに高くなろうとも、それは静かなままである。

思考にも、耕す時と収穫する時がある。

釈明を一切するな、何事も拭い去ることなく、物事をありのままに見、ありのままを語れ。―しかしお前は、ある新しい光が事実の上に投げかけるものを見なければならない。

「反哲学的断章」(1946)

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