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シューベルト/3つのピアノ曲 ― Drei Klavierstücke D946

今日11月19日はフランツ・シューベルトの命日。そこで最も好きな作品―「3つのピアノ曲 D946」を取り上げたいと思う。


とても地味なタイトル曲だが、特に2曲目はピアノ曲史上最高ランクに位置する愛おしい作品だ。シューベルトの死の半年前に書かれたこの曲集は、1868年にブラームスによって編集され匿名で出版されたようだ。但し、この3曲の組み合わせがシューベルトの意図なのか、ブラームスの意図なのかは未だに不明である。それでも「このまま歴史に埋もれさせるには勿体ない」と思えるほど素敵な曲なので、何はともあれブラームスには感謝しかない。グリゴリー・ソコロフのライヴ・アルバムのライナーノーツでは「無視できない絶望と孤独の要素でも注目に値する」「フランツ・リストの最後のピアノ作品に先駆けたもので、逃げ場のない絶望が繰り返し現れる」と、この作品の特殊性を絶賛している。

第1曲変ホ短調は疾風怒濤のイメージだ。タランテラ風の暗く推進力のある音楽が展開する。所有盤であるソコロフの演奏は指の強靱さを見せつける。印象的なフレーズはテンポを沈み込ませ、じっくり歌う。ピアニストによってはカットされることのある第2エピソード(作曲者によって削除された)もソコロフは演奏している―僕が初めて聞いたアファナシエフ盤も「完全版」だった―。それぞれのエピソードには追憶の響きが聴こえる。

本命の第2曲変ホ長調はゆったりとした時間が流れる。いつまでも身を浸していたい―本当にそう思う。冒頭の穏やかなテーマはシューベルトの最後のオペラ「フィエラブラス」D796 (1823) の合唱より引用されたものであるようだ。

テンポが快活なため分かり難かったが、きちんとメロディを確認できる―。

2つの中間部―前半の第1エピソードはハ短調。急に嵐が起こる。暴風雨の中、突き進んでいるイメージ。やがて嵐がやみ、冒頭のテーマが戻ってきて安堵する。そして登場する変イ短調の第2エピソードが白眉―ここを聴きたいがために耳を傾けているようなものだ。枯葉がはらはらと舞うイメージ。しんしんと静かに優しく降る雪でもいい。センティメンタルに沈み込むギリギリのところで踏みとどまっている。悲しみの中にどっぷり浸かった方がラクな場合もある―でもそうしない。いや、そうできないのかもしれない。歩みを進めてゆかなくてはいけないから―。

そして最後の第3曲ハ長調は何もなかったかのように駆け出している。シンコペーションのリズムだろうか、技巧的に聞こえる。中間部は打ってかわって教会の鐘の音のエコーのように響く―過去の手放しか。最後にはピアニスティックなコーダが待っている。

2013年、ベルリン・フィルハーモニーホールでのライヴで―。

2005年、浜離宮朝日コンサートホールでのライヴ―。


D946には実は色々と問題が孕んでいるようで、最近聴いたアンドレアス・シュタイアーのアルバムでそのことを再認識させられた。ライナーノーツには、指揮者で音楽学者のペーター・ギュルケ (ベートーヴェンやシューベルトの楽譜校訂も手掛けている) とシュタイアーとの対談が載せられているが、その問題が再燃されてしまっているのである。

シュタイアーは演奏者としての経験も踏まえた上で、D946の作品構成の問題を提示している。第1曲は当初全5部構成=ABACAで作曲されたが、後にシューベルトによって後半のCAがカットされ、ABAの3部形式になったはずのものを、ブラームスは全5部構成に戻して出版してしまったようなのだ―当初のシューベルトの意図を尊重したのだろうか。そちらの方に音楽的価値を見出し、残しておきたいと思ったのだろうか―。そして20世紀後半に出された「新全集」では (シューベルトの最終決定に沿って) ABAの3部形式が採用、シュタイアーの演奏もそれに準拠しているわけである―ちなみにCエピソードは僕にはとても魅力的に聴こえる。アファナシエフ盤で初めて知ったのだった。

そこまでは周知の事実なので別に構わないのだが、同じABACAの5部構成である第2曲 (シューベルトはそのままにしている) は「バランス感覚を保つのがたいへん難しい」「重量オーバー」「もしかしたらこの曲の第2エピソードも削除しようと考えていたかもしれない」とシュタイアーが苦言を呈したのがギュルケ氏の気に障ったようで、インタビューの後半は静かで熱いバトルが繰り広げられるという事態に―。しまいにはシュタイアーが「作曲家がやってのけられなかった(出来の悪い)音楽に対して、演奏家がその辻褄合わせをしなければならない」といった演奏者優位の発言まで飛び出す始末。よく掲載を許可したものだと僕なんかは思ってしまうが、奏者としての関わり方との違いを感じさせられて興味深くもあった。特に第2曲は僕が最も好むナンバーで、しかも問題として槍玉に挙げられた第2エピソードが素晴らしすぎるゆえ、前述のシュタイアーの意見には心底驚かされた。きっとギュルケ氏もこの変イ短調の第2エピソードが好きなんだな、とつい仲間意識を持ってしまう。

確かにシュタイアーの見解も分からなくはない―つまりは作品の統一性の問題なのである。もし第2曲がABAの3部構成になれば、第3曲を含めた全3曲が (ブラームスの後期ピアノ小品集のように) 3部構成で綺麗に纏まるわけだ。ブラームスの校訂に基づく旧全集版に従えば、全3曲は「5部-5部-3部」構成となり、新全集版では「3部-5部-3部」となる。僕としては、やはりアファナシエフやソコロフが演奏しているように前者の方がずっと好ましい (後者ではシンメトリックな構造となるが) 。シュタイアーの思惑通りに、もしシューベルトが全体の統一性のために第2曲の第2エピソードをカットしていたら…と思うといたたまれなくなる。シュタイアーは第2曲のメインテーマより中間に挟まれる2つのエピソード (B,C) の方が「ずっとドラマティックで表現力が強い」ことを認め、それゆえアンバランスであると言っているように思われる。しかしそれこそがシューベルトの音楽の本質の一部なのではあるまいか―その不完全で恰好が悪いところも。そして未完成だとしても。後世の人々によって修正されたのではない、ありのままの姿。綺麗ごとではない美しさ。「メインテーマより (挿入される) エピソードの方が (魅力的で) 面白いという事実も無意味ではない」というギュルケ氏のコメント通りだ。リスナーとしては―極論すれば―聴こえてくる音楽が魅力的であればそれでいいのである。


ところでD946は「3つのピアノ小品」と呼ばれることもあれば「3つのピアノ曲」「3つの即興曲」と呼ばれることもある。僕は「3つのピアノ曲」で馴れていたが、「ピアノ小品」と「ピアノ曲」では印象が異なるような気がした。前述の構成を巡る論議?を経た今、前者は新全集に都合が良いネーミングのように感じる。ドイツ語では「Klavierstücke」なのだから「小品(集)」で間違いはないのだろうけれども。


D946におけるシュタイアーの演奏はインタビューでの当惑を感じさせないもの。「Allegro assai」指定の第1曲変ホ短調を一気呵成に突き抜ける。そのスピード感の中でも絶妙な間が生かされ、フレーズを慈しむような柔らかい表現が聞こえてきて嬉しい。リピートで表現を変えるのはバロックでは当然の演奏法だが、シューベルトにおいても隠し味として効果が発揮されている。中間部(B)の変ホ長調ではテンポを落とし、じっくり歌う。弱音のアルペジョがとても美しく夢幻的だ。問題の第2曲変ホ長調はアレグレットで、シュタイアー曰く「ナイーヴに」淡々と始まるが、ハ短調の第1エピソード(B)は激しい嵐に遭遇してしまったような気持にされられるほど荒れ狂う。このコントラストは絶大だ―楽器の軋む音も聞こえるくらい強烈なのだ。そして再び(A)が戻るが、シュタイアーはコントラストに「ひるんでしまう」ので遠慮気味に演奏するのだという。「B部分があまりにも衝撃的なため、その後に冒頭と同じように再び楽し気に演奏することは不可能です」と述べるシュタイアーは実直である。そして変イ短調の第2エピソード(C)が始まるが、他のピアニストより明らかに速いテンポで駆け抜けて行く。これもまた「生き急ぐ秋」のような感じがして味わい深い。一瞬だけ間を取ってA主題に戻るのも彼らしい。この後には最も長いパウゼも聞かせ、名残惜しむかのようにリタルダンド気味に終わる。「Allegro」で始まる第3曲ハ長調は、今までの問題が帳消しになったかのような明るく思い切りの良い弾きぶりで、つい微笑んでしまう。中間部に変ニ長調で聖歌のような厳かな光が差す箇所があり、そこが魅力的―。全3曲の中であまり好んでいなかったナンバーだが、その中間部の魅力に気づかせてもらったおかげで、少し好きになれたような気がしている。

シュタイアーによる演奏で。使われている楽器はヨハン・フリッツが1825年頃ウィーンで製作したフォルテピアノ。シューベルトが生きた当時の響きを追体験。


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