通院、入院、転院の話②

通院、入院、転院の話①|あねさん (note.com)

一週間ぶりに帰宅した父は、何とか車椅子へと這い上がった。
父の部屋まで押して行くと、
『すっかり変っちゃったな』
と驚いて、目をキョロキョロさせていた。

移動しただけでも疲れた…と、直ぐに横になってしまった。
検査入院の時、背中の穿刺が痛かったんだ…と言っていたのを覚えてる。
『トイレやご飯の時には声を掛けてね』
と告げたけど、その日は夜中に呼ばれることもなかった。

翌日は父の姉妹が来てくれた。
途中で『何か食べたいものはある?』と連絡を貰ったので
父に訊ねたところ『焼肉弁当が食べたい』と。
それからしばらく後に
叔母さん達がコンビニ弁当や飲み物などを買って来てくれた。

『何か不自由してない?』
『欲しいものは?』
など、気を遣って頂いたのだが
手首から先にも力が入り難くなっていた為か
『食べる気がしない』との回答。
何時もならたちまち完食してしまうお弁当も
半分以上、残してしまっていた。

『やっぱり俺、B病院に入院したい』
そう話して来たのは、叔母さん達が帰った後だったろうか。
自力での生活が困難なのと、私の病気や生活のことを考えると
自宅での療養に限界を感じる、とのこと。

正直、私も同じ気持ちだった。
リハビリ入院が先に頭にあったので
せめて症状が落ち着くまでは、病院で体力を付けて欲しい。
また、家での食事よりも入院食の方が
栄養やバランスを摂取出来るのでは?の考えもあった。

翌日はバイトも休みだった。
B病院に問い合わせると、
入院するにはやはり、神経内科の診察が必要とのこと。
『朝一で来て下さい』
と言われ、父に伝えると『わかった』の答え。
その日もやはり、横になってしまったので、
最後に家で何を食べ、何を話したのか、忘れてしまった。

翌朝、父はもう立ち上がるのもやっとの状態だった。
ケアマネさんと連絡を取り合っていたので、そのことを伝えると
『手伝いに行きましょうか?』と、わざわざ隣市からやってきてくれた。
(たった数週間で枯れ木のように痩せ細った父を見て驚いてらした)

家を出る前にトイレに行きたいと言われ、二人がかりでトイレに行った。
ケアマネさんが支えて下さっている間に、私がパジャマと下着を下す。
すると、
『娘にこんなことをさせて、申し訳なくてよ』と父が号泣し始めた。
父は優しく、感動屋で、涙もろい。
だからと言って、こんな時に泣かないでよ、と窘めてしまった気がする。

やがて、車椅子に座った父を、ケアマネさんが押して下さった。
柱や曲がり角に、足をブツけてしまう私とは全然違って優しい。
『アンタ、車椅子押すの、上手だな』
(アンタは方言で、アナタの意)
車椅子の上で父は、感心しているようだった。

助手席に座れるか尋ねたら、横になりたい、と。
後部座席の扉を開き、二人がかりで父の身体をシートに引き上げる。
『病院に着いたら受付で、
リハビリステーションのスタッフさんに助けを求めて下さい』
『わかりました。ありがとうございました』
ケアマネさんにお礼を告げて、言われるままに病院へと向かった。

ABC何処の病院も同じだったけど、
入口には人が居て、サーモチェックをしている。
『どのようなご用件ですか?』
『受診と入院希望なのですが』
『失礼ですが、ワクチン接種はお済みですか?』
『済んでます』
今、考えると、どうかしてるよね。
それでも、父を診て頂くことが最優先だったから、
受付へ行って、
父が起きられないから、リハビリの人に助けて欲しいです、と申し出た。

男性スタッフさんが二人がかりでやってきて、
入口付近に停車した車から、父を搬送して下さった。
その様子を確かめてから、車を来院スペースに停めに行く。
受付に戻ると、父は車椅子に座っていた。

神経内科は二階だった。
エレベーターで上がると、受付に不機嫌そうな人が座っていた。
『感じ悪くない?』
『あの人はいつもああなんだ』
父は気にも留めない様子だった。

診察には時間がかかるらしく、
父も私もぐったりしていた。
その日に限ってスマホを忘れ、何か調べようにも何も出来ない。

隣りには同じように、お母さんを車椅子に乗せた娘さんかな?
のような患者さんが座っていた。
ボソボソと語られる親子らしき会話。
お父さんとは元々、会話が少なかったから、
その様子を羨ましく眺めていた。

『喉が渇いたな』
『缶コーヒー買ってくる?』
『ああ、頼んだ』
受付の近くに自動販売機があったので、エスカレーターで下りて行った。
誰も彼もがマスクをしてる。
三密回避などの張り紙があって、異様な雰囲気。
父が好きそうなコーヒーを買って、
二階待合室へと戻った。

私が空けた缶コーヒーを2、3口飲んだところで咽せてしまい、
床に零れたコーヒーを、謝りながら借りた雑巾で拭いた。
車椅子に座っているだけでも辛いのか、
父は会議机のある場所に移動したいと言った。
机の上に突っ伏すと、両腕を枕にして瞳を閉じた。

私は車椅子の持ち手を掴んで、父の背中や後姿を見ていた。
今にして思えば、スマホを忘れてきたのも
この為の時間だったと思えるくらいだ。

やがて父の名前が呼ばれ、父と一緒に診察室へと入った。
こちらの先生も、優しく穏やかな語り口が印象的。
父は開口一番に
『先生、俺、嫌になっちゃうよ~』
『思うように生活したい。身体が元に戻るまで、入院したい』
と言った。

その頃、病床が圧迫していたのか、神経内科病棟に空きがないと言われた。
空きが出来たら連絡しましょうか、と言われ
それまで自宅待機できるか不安な気持ちになったのを覚えている。

しばらくしてから、
『他の病棟なら空きがあるが、構いませんか?』と言われ
『回診は先生にして頂けるんですか?』
と尋ねたところ、勿論、とのこと。
神経内科に空きが出るまで、内科に入院させて頂くこととなった。

C病院から持ち帰った入院セット一式を持ってきていたので、
入院手続きをしてから車へ荷物を取りに行った。
その時、父とどのように別れたか覚えていない。
受付かで『入院は〇階になりました』と言われ
エレベーターで上がっていった。

立ち入れるのはナースステーションまでで
そこから先は立ち入り禁止だった。
荷物を託して、そのまま家に帰ったんだろうか。
その日か、次の日かに
『毛布を持って来て欲しいそうです』
と連絡があり、届けに行った。

病室は一番手前の四人部屋。
差し入れた直後に、看護師さんが毛布をかけて下さったのを
ナースステーションから見ていた。
父の膝がモゾモゾと動くのが見えて、何となく安心したのを覚えている。

リハビリ、治療入院と聞いていたから
元気になって帰ってくると思っていたのだ。
それから三週間もしない内に、亡くなってしまうとは
夢にも思っていなかった。

父との通話は家のこと、家業のこと、
大切な用事の代理人となった私に、経緯を訊ねる、が殆どだった。

食事を摂るのに、プラスチックのフォークやスプーンが欲しい
と言われ、百均で買ったものを差し入れたりした。
その他の差し入れは、薄手のパジャマ、厚手のパジャマ
テレビを観る為のヘッドフォン、新しい下着。
都度、差し入れていたのだが
洗濯ものは叔母に頼んでいたと後でわかった。

叔母や従兄弟に言わせると、
『あねちゃんが可哀想だから』
家ではお互いがお互いに自分のことをやっていた。
こんな時くらい、頼ってくれても良いのに…と思ったのを覚えている。

私が二度の手術、入院をした時も、
何だかんだと父は毎日のように病院を訪れてくれた。
片道三十分はかかるのに…
転院した病院は、それよりもずっと近い。
『面会禁止』でさえなかったら、毎日だってお見舞いに行きたかった。

最後に通話したのは九月末。
父は『十月には家に帰りたい。ベビーカステラが食べたい』
と言った。
『病院食以外の食べものは、駄目なんじゃないの?』
に対しては
『新しいパジャマの中に隠して差し入れてくれ』
と言われた。

ベビーカステラを探したが
『野菜カステラ』しか見付けられなかった。
それと、父が好きな一口塩羊羹、野菜ジュースを調達して
言われるままに、丸めたパジャマの中に隠した。

父は結局、その時の差し入れには手を付けられなかった。
電話口では気丈に振る舞っていたが
救済申請、医療手当に必要なカルテや診療記録を見ると
『今日は駄目だ』
『苦しい』
と言った言葉がたくさん並んでいた。

トイレへ行くのに、ナースコールに遠慮して
ベッドから転落していたこともあったと判明した。
(看護師さんが怒られてしまうので、遠慮なく呼んで欲しいと補足あり)
床の上で蹲っていた、の記述を読んだ時、苦しくて泣いてしまった。

母に先立たれて、ずっとしょぼくれていて、
同じ世代のご夫婦を見るのが辛かった、と度々、口にしていた。

お母さんが生きていたら、我儘も、もっとたくさん言えたんだろうか。

今でも、違った人生があったのかな…

時系列もあやふやなのですが、
こうした事実があったことを、記録として残しておきます。

ワクチンが原因とは限らない、と断言する人がいますが
ワクチンが原因かもしれない、とは考えられないのでしょうか?

少なくとも私は
父の『体調不良は2回目のワクチン接種後から』
の言葉を信じていますし
たくさんのご遺族、後遺症患者の方とお逢いし、お話させて頂いた中で
ワクチンを打たなかったら
急性ギラン・バレーになることも、
それが起因で亡くなることもなかったと思っています。

ワクチン被害は出ていない。

そう思うのは勝手です。

ですが、
公然とそのことを口にするのはやめて頂きたいです。

専門外だけでなく、専門医を名乗るなら尚のこと。

『ワクチンが原因でしたよ』

となった時、
その言葉の重さに対し、責任を取れるのでしょうか?

被害をなかったことにしないでください。

父の死を無駄にしないでください。

被害がないのなら、父はどうして亡くなったのですか?

私や私たち遺族、
後遺症で苦しむ方をブロックなんかせずに
きちんと真正面から理由を聞かせて頂きたいです。

詳細な時系列があやふやな部分もあり、
後に【追加訂正】表記の上で修正したいと思います。

次回は
危篤と父が亡くなるまでの話。
お葬式の話を差し支えない範囲内で書かせて頂きたいです。

2024/7/22 誤字等加筆修正

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