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学部生相手に授業をしていて思い出したこと。
大学で授業をしている。学部生向けの授業をしている。そこで最初はチャクラバルティの論文を英語で読もうと思って話を始めた。だが、何度かイントロ的な話をしているうちに、ティモシー・モートンについて何かと話をしていることに気づいて、だったらやはり、ティモシーの論文や本を読んだ方がいいんじゃないかということになって、そのうちのいくつかを抜粋して英語で読むことにした。自分自身、ティモシーさんのオンラインレクチ
もっとみるお知らせ(大学院における受験と研究)
京都大学大学院総合生存学館での受験と研究について
こんにちは。篠原雅武と申します。私は現在、京都大学大学院総合生存学館というところに特定准教授として所属しています。ここに来たのは2019年4月です。それからいろいろなことがありまして、令和7年度(つまり2025年度)からは、大学院生の指導もできることになるそうです(大学の事務の人がそう言っていました)。
総合生存学館がどういうところだったのか、
ティモシー・モートンの「自然なきエコロジー」についての文章
2021年9月に某出版社より「『文学理論の名著50』執筆のお願い」というメールがあってそれで原稿を書いたのですが、いつの間にか企画そのものが消滅したそうで、原稿も自動的にボツになりました。
それをそのままここに載せておきます。
ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』
篠原雅武
Ecology without Nature: Rethinking Environmental Aesthet
人新世という言葉を否決したからといってその現実が消えることはない。
先ほど、日経新聞に掲載されていた、「地質時代「人新世」案、学会否決 社会で浸透も議論に幕」という記事を読んだ。
ということなのだが、それはつまり、地質学者の世界において否決された、ということである。じつをいうと、人新世をめぐっては、たとえば地球システム科学者によっても提起されていて、2018年には、「ホットハウスアース」仮説を提唱する論文が出された。日本語訳も出ているが、その冒頭にはこう書かれて
2020年あたりから考えていること(what does it mean to be human?)
思えば、2012年に、ティモシー・モートンの本を読む中、エコロジカルな思考(ただしそれは、post-anthropocentricな観点を見出すことを通じて、人為の限界を考えることであって、そのかぎりでは、人間を中心とするのではない世界像を描き出し、そのもとで人間とは何かを考えること)の大切さに気づき、必死でフォローしてきたのだが、自分の言うエコロジカルなものはいわゆる自然保護とは違うものだという
もっとみる高校生(受験生)から大学生になること。私の場合。
みなさまこんにちは。篠原雅武と申します。わりと適当に始めたnoteですが、読んでくれた人もいたみたいで、とても嬉しく思います。
気づいたら四月になりまして、新学期になり、京都の岡崎公園周辺は大学生で溢れています。3月半ばから末にかけては、みやこめっせ周辺には卒業する学生さんがたくさんいて、近所のスターバックスも学生さんやその親御さんで溢れかえっていたのですが、その一週間後には新入生が入学式をする
2023年8月24日に釜山で行われた韓国教育思想学会夏学術大会で話したこと
「人新世の哲学」「人間以後の哲学」がいずれも韓国語に訳されて、そのこともあって、韓国教育思想学会より講演の依頼があり、読み上げ原稿をつくった。当日は僕が日本語で読み上げたものを通訳者が韓国語に翻訳してくれたのだが、この原稿も韓国語に翻訳され、当日の配布物のなかに収録されていた。日本では誰も知らないことが、韓国で起きていたということなのだが、この文章を埋もれさせておくのもどうかと思い、ここで公開する
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