学部生相手に授業をしていて思い出したこと。

大学で授業をしている。学部生向けの授業をしている。そこで最初はチャクラバルティの論文を英語で読もうと思って話を始めた。だが、何度かイントロ的な話をしているうちに、ティモシー・モートンについて何かと話をしていることに気づいて、だったらやはり、ティモシーの論文や本を読んだ方がいいんじゃないかということになって、そのうちのいくつかを抜粋して英語で読むことにした。自分自身、ティモシーさんのオンラインレクチャーを受けた経験もある。その話のおもしろさ、それも映画やドラマや音楽と関連させてエコロジカルアウェアネスを語るスタイルから知らぬ間に影響を受けていることもあり、だからまさにそのスタイルで授業をしていくことにした。

また、若き建築学生だった富樫遼太さんに自分の著作(複数性のエコロジーや人間以後の哲学)が何らかの影響を与え、それが修論となり、2021年(第32回) 日本建築学会 優秀修士論文賞の受賞となったということを、それもまた京大の建築系の院生から聞いて、それで気になってその論文を読んだのだが、それで最近富樫さんが京都に来るということになって、研究会・交流会をした。


直接聞いたところ、2020年にたまたま池袋のジュンク堂で「複数性のエコロジー」を手にしたのがきっかけで、論文が書けたとのこと。こういう思いもよらぬ話を聞くと、書いておいてよかったなあと思った。

というように、自分の著作や、話していることは、届くところには届いているということを、最近感じることが多く、また学部生などに直接話していても、まあ何か考えるきっかけにはなっているのかな?と思う。

ただ、自分が学部生や院生だった頃は、どうだっただろうか?自分は京都大学の総合人間学部というところにいて、まだ三期生だったため、今から思うとどうなるかよくわからない状況にいたのだろうと思う。当時はドゥルーズをはじめとするいわゆるフランス哲学が大人気で、そういうのに関心を持つ人の大半が読んでいた。自分もそれに負けじと読んでいたのだが、農学部とか理学部の人から遺伝学や物理学の話を聞くのも面白くて、自分はそういう理科系的な思考に対抗可能な思考を形成することが大切だと思い、哲学とか思想の本を読んでいたように思うが、だんだんと何をしていたか忘れてきた。インターネットも未発達だったから、情報源は書店や雑誌であった。

1995年から2000年にかけて、いろいろ読んでいた。ただ、修士論文を書き終えた頃から、文献読解研究ということに何の意味があるかもよくわからなくなって、写真を見たり、街歩きをしたり、建築を見に行くとか、美術館にいくとか、ギャラリーに行くとか、音楽を聴くとか、映画をみるとか、そんな感じでフラフラしていた。博士課程のある時期になって、さすがにこのフラフラ状態はまずいと思い反省して博論を真面目に書くようになったが、今から思うと、学部の頃の引きこもり読書モードと、博士課程の最初の頃のフラフラ状態のとき、一番いろいろ考えていたのかなあ?と思わなくもない。

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