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お知らせ(大学院における受験と研究)

京都大学大学院総合生存学館での受験と研究について

こんにちは。篠原雅武と申します。私は現在、京都大学大学院総合生存学館というところに特定准教授として所属しています。ここに来たのは2019年4月です。それからいろいろなことがありまして、令和7年度(つまり2025年度)からは、大学院生の指導もできることになるそうです(大学の事務の人がそう言っていました)。

総合生存学館がどういうところだったのか、私はあまりよく知らないのですが、もとはといえばリーディング大学院プログラムを実施する組織として2013年4月に設置されたそうです。ある資料には、次のように書かれています。

学館は、「人類社会の生存と未来開拓を担う各界の世界的リーダー」の育成を目的とし、そのため、学寮制を伴う5 年一貫 制の課 程において「細分化された特定の専門分野ではなく、複合的社会課題を克服するための思想・政策や方法を幅広く探究する学問」としての総合生存学を修得させようとする大学院である。

リーディング大学院プログラムそのものは2018年3月までで、そこで文科省からの補助金が終了したらしいのですが、にもかかわらず、大学院として存続し、今に至るそうです。ちなみに、たとえば大阪大学にも同じようなリーディング大学院プログラムがありましたが、これは大学院を新設することなく、既存の複数の大学院が横断的に協力する中で運営されていたそうで、その点で、京都大学のリーディング大学院プログラムは例外的だったといえるのでしょう。それはともかくとして、京都大学大学院総合生存学館は、プログラム終了後も存続するのですが、補助金がないという状況において、組織体制や入試のあり方も含めていろいろと見直す必要があるということになり、2023年4月より、学館長が総長により新しく任命され、新体制になったそうです。そのあたりの詳しい経緯は、上の人たちが進めていたことなので、私はよく知りません。新体制については、下記の特設ページに書かれています。

2019年4月に、私がここにどういうわけかここに紛れ込むことになったのですが、その際に招かれた理由として、自分が「人新世の哲学」という、当時としては珍しいことに取り組んでいたこと、人間の条件に関する哲学的考察を、理工系学問で提唱されている人新世の学説の検討との関連で試みようとしていたことが評価された、ということがあります。自分の出身が京都大学の総合人間学部で、大学院も人間・環境学研究科で、つまり特定の専門分野の枠にとらわれるのでは見えてこない学術的な問題が何であるかを考えつつ学術的な研究を進めていくより他にないという環境で学んでいたという経験もあるので、それでまあ、ここに所属できるのであれば身を置こうかと考えたように思います。それ以降、いろいろとやらせてもらいました。

チェルフィッチュの「消しゴム山」のきっかけの一つが、じつは私の著作だそうです。

また、岡田弘太郎さんがde-siloを始めるきっかけを作ったのもじつは私でした(といっても、組織の運営には関わっていないので偉そうなことは言えませんが)。

電気湯(ヴェンダースの「パーフェクトデイズ」にも出た)の大久保さんにも影響を与えたそうです。

それで2024年になっても私はここにいるのですが、その間、私自身、大学院生を受け入れることは制度上できなくて、だから大学での仕事としては、いくつかの委員会に出るとか、講義を行うこと(それも、京大の「全学共通科目」の一つとして授業を開講する)ということをしてきたわけです。大学院の授業では、人新世の哲学という表題のもと、地球システム科学やテクノスフィアをめぐる研究状況の紹介と、それが人文社会系にとって有する意義、さらにはその観点からの人文社会系と理工系との接点の模索といったことを論じています。そのため、農学研究科や工学研究科、地球環境学堂といった、理工系の院生の受講者が大半になっています。そして、昨年度の受講生であった複数名の院生(工学の建築系院生、人間・環境学研究科所属の人類学専攻の院生など)とは、読書会を隔週で行うなどしてきました。最近はアナ・ツィンの人新世に関するインタヴューを英語で一緒に読みました。

(下記の著作に関するインタヴュー記事です)。


学館の今後の状況次第ではこれをベースに研究会を立ち上げることを考えていて、あるいは、ミニコミ的な同人誌を作ろうかとも相談中です。


もしも、私の著書を読んでいて、何か自分と関心が重なるとか、もっと自分なら別に考えてみたいといった考えのある学生さんであれば、受験してみるのがよいかと思います。前に自己紹介欄でも書きましたが、私は基本は哲学的な研究をメインにしつつも、アーティストや建築家との対話的関係のなかで、「私が生きているところはどうなっているか」「人間であるとはどのようなことか」といった哲学的な問いをめぐって思考し、文章を書いてきました。また、最近は「英語で書くこと」を試みていますが、そうするうちに、英語で研究する人文社会系の人との交流も増えてきまして、日本語から英語への翻訳を通じた哲学・思想の研究の大切さを確信しつつあります。

話すときはこんな感じです。

そうやって文章を書き、さまざまな人(そこには日本人の人文社会系の関係者以外の人が多いのですが)と関わる中、何人かの人たち(建築、アート関係、演劇など)の思考を触発してきたらしく、そこにおいて、研究をつうじた社会との関わりの接点の可能性があるのかもしれないと私自身は考えています。

私のところで研究することで、それが何につながるのか・・・?文学研究科など、まっとうなところで研究し、アカデミックポストにつきたいといったことを考えている人は、私のところで研究するなどやめたほうがいいのは火を見るよりも明らかですが、ただ、大学でのアカデミックな研究だけでなく、本を書いたり議論したり文章を書いたりすることや、あるいは他領域の人と協働でクリエイティブな仕事をしたいと考えている人には、向いているかもしれません。つまり、私のところで学位をとっても、それがそのまま日本の大学のような研究職に直結するとは思えません(もちろん、人によってはできるかもしれませんし、そうしたい人をサポートすることはできます)。実際、アート関係のキュレーターや、建築の可能性を拡張するといった、そのようなニッチなことを試みている人は、私の著書を読んだり、私の話を聞くことで、何かヒントを得ているらしいので、そのようなヒントを得る機会を頻繁に確保したいという人には、いい経験になるかもしれません。

ただ、総合生存学館への入学に至るには、なかなか複雑な試験を受けてもらう必要があり、また、複雑な研究指導を受けてもらう必要があります。詳しくは、ここに書かれています。

とても簡単に言うと、京都大学の大学院の関連しそうな部局の試験を受けてもらい、そこで合格するだけでなく、修士1・2年のあいだはそこの部局で授業を受けたりしてもらって単位を習得し、修士論文に相当するものを提出することが求められる、ということです。ただ、他部局で授業を受け、さらに論文を提出するにしても、そのあいだ私がその学生さんを完全に他部局にお任せするなどできるわけもありません。学生さんは、私のところで授業を受け、論文を書くための方法を身につけるため、ある程度の修行をすることができますし、また、学位を取得することで何ができるかを知るため、日本の大学の世界以外に広がっている、さまざまな人たちとの交流機会を紹介することもできなくはないです。

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