見出し画像

修業論ー無敵の探求 【読書感想】

努力する以上、努力した結果得られるものを先に知っておきたい──これは自然なことだ。

一方、昭和の頃の”修業"と言えば、寡黙な師匠が「いいいから黙ってやれ」と言わんばかりの態度で意味が分からない雑用を課したり、芸の世界では身の回りの世話をするなど、先の見えない状態で行うものーこんなイメージがある。哲学者である内田樹氏が、自身も38年間続けて7段を取得している合気道についての知見から修業について持論を語る。参考はこちら


努力と修業は別物である

修業で取得できる内容は、事前に想定もしていないものばかりである。内田樹氏は以下のように述べる。

そもそもインセンティブという言葉が、修業とはまったく無縁の、本質的に「反修業的」な概念です。インセンティブの価値は、努力が始まる前にすでに理解可能でなければ意味が無い。修業して獲得されるものは、修業を始める前には「意味不明」のものだからです。身体技法の場合には、修業で取得されたことはほとんどの場合、「自分の身体にこんな部位があることを知らなかった部位を感知し、制御できるようになった」という形で経験されます。

修業論:内田樹

内田氏は”トレーニング”や”努力”を否定しているわけではない。修業とは別物であると考えているのだ。

武道の目的である「天下無敵」とは何か

修業、それも武道における目的は「天下無敵」だという。

天下無敵とは、決して力や技であらゆる対戦相手をやり込めることではない。これは普通に考えて不可能であるし、検証もできない。仮に本当に最強でも老いや病で弱っていく。

ここで無敵の「敵」という言葉を考えてみると、物理的な白刃に留まらず老いや病など「心身のパフォーマンスを低下させる要素全体」となる。つまり、究極的には「どのような危機的状況をも生き延びる技法」および、そのために心身を統御(全体をまとめ支配すること)する方法が武道の目的であり、修業で取り組む内容だ。

敵無しの本当の意味とは

天下に敵なしとは、あらゆる敵の存在を日常的な存在かのように振舞う技術ともいえる。風邪をひいたら、さも生まれた時から風邪をひいてたかのようにふるまい、子供をなくしても生まれてからずっと子供に死なれ続けた人かのようにふるまえるマインドのことを言う。だが、全てのリストを対処するのは不可能だ。

こういう時は前提となる単語の意味を考え直したり、具体化する必要がある。この場合は、厳密には「わたし」のパフォーマンスを低下させるものだと捉えるしかない。天下無敵が、空言(根拠のない言説)でないなら、「わたし」の定義を書き換えないと論理的にはありえない。天下無敵に至るには「これは敵だ」と思い直す私自身を捉えなおさなければならない。

武道の先陣である柳生宗矩の「兵法家伝書」や師である禅僧沢庵は、何事を成すときも無心無念となり、まるで操り人形のように体が動くことが理想だと述べている。

「道場は楽屋であり、道場の外が舞台である」

内田氏の師匠である多田 宏さんはこのような言葉を繰り返すそうだ。

楽屋はいわば科学における「実験室」である。実験というのは失敗がつきものである。それで構わない。仮説を立てる。実験をする。仮説に合わない反証事例が提出される。仮説をよりカバレッジ(適用範囲)の広いものに置き換える。このループが科学を発展させ、人間の生きる力と知恵を深めてきた。

舞台は「真剣勝負」の場である戦国の世であれば真剣勝負の場とは文字通り白刃を交え矢玉が飛び交う戦場のことである。けれども現代に生きる我々にとっては日々の職場であろう。そこで失敗すれば立場を失い、信用を失い、時と場合によっては財貨を失う。そこで私たちの身に備わった生きる知恵と力とを開花させるために役立たないのであれば、それは「武術」とは言えない。

とすれば、修業からすれば、その舞台で十分なパフォーマンスを発揮するために道場の稽古はなされるべきである。

教育活動がうまくいかない。書き物の筆が進まない。経営が思うに任せない。そういう時に私は、「これは合気道の稽古の仕方が間違っていたからだ」と考えることにしている。

つまり生業と稽古は表裏一体のものである。私たちは現に、道場では確かに相手を投げたり極めたり固めたりするための技法を稽古している。だがそのような格闘の技術を決めることが究極の目的であるはずがない。そのような技術を極めても21世紀の現代では自己利益を確保できる場面は限定的であろう。

武術の稽古を通じて私たちが開発しようとしている潜在能力を「集団を一つにする力」であろうと内田氏は考える。

力に勝る個人が周囲を威圧し、衆人を恐怖させ屈服させても集団を形成することは可能である。だが、それは一定の規模を超えることはできない。あるいは別の暴力や恐怖で簡単に瓦解する。

複数の人間たちが完全な同化を達成した集団とはどのようなものか。それはどのように構築されるのか。内田氏は武道的な技術的課題はそのように定式化できるだろうと思っている。それは端的に言えば「他者と共生する技術」「他者と同化する技術」である。

合気道は「愛と和合」の武道と言われる。初心者はこれを観念的なものと思っているが、実際は精緻に構成された技術の体系である。多田先生から繰り返しそう教わってきたし、内田氏も経験からそう考えている。

本書の感想

興味深い内容だったが、「言ってることは分かるけど実感が伴わない」内容が多いものだった。一度武道をやってみたいなと思う。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?