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なぜ宗教が必要か|第8回宗教マイノリティ理解増進勉強会【下】

5月18日に「第8回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を行いました。

はじめに、私が過去7回行ってきた内容のまとめを発表。

その後、参加した「主の羊クリスチャン教会」の中川晴久牧師、新宗教の信徒、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)南東京エリアの渡邊一喜・大教会長、家庭連合の信徒ら合計19人で、活発な意見交換が行われました。

意見交換

情に訴える

A男くん(家庭連合、大学生)
ジェンダー・マイノリティの主張の中には、センセーショナルな映像とか、「我々はこんなに蔑まれてきたんだから、こうしていくべきでしょう」っていう、正直、論理的には欠ける部分はあるんですけど、やっぱり情に訴えかけていくような世界が大きくて。マイノリティの動きって大体そうじゃないですかね。

そういう動きに、「論理的に正しいからそうだよね」って伝播していくのは、時間もかかるし、なかなか有効な活動ではないのかなって思うんです。

いかに宗教マイナリティを多くの人が共感を持てるような形で発信できるか。ここまで宗教に対するイメージが悪くなってるので、「ちょっと考えてあげた方がいいんじゃないかな」って思えるようなメッセージを発信していかないといけないんだなって思いました。

中川晴久さん(キリスト教牧師)
僕の神学研究所の所長が、「親は子供から学ぶものだと思っていない。教えるものだと思ってる」って言ってたんですよ。

だから子供からは情で訴える。情で訴えるのが効き目あるのかなと、思いました。

「宗教」という言葉のイメージ

B男さん(新宗教信徒)
僕は高校からアメリカで生活をしていて、22歳で帰国したんですが、そして最近も年に2回ほどアメリカに行くんですけど、当時の記憶と最近も変わらず思うことが、アメリカに行くと宗教に関しての反応が日本と全く違うんですよね。

会話の中で"Religion"(宗教)って言葉が出ても、アメリカだと特別な反応はないんですよ。普通にターバン巻いている友達もいれば、仏教、クリスチャン、いろんな人たちに囲まれながら生活していました。

でも日本に帰ってくると、会話の中で宗教と話が絡んだ途端、相手の反応ががらっと変わる。これ日本特有だと思うんです。

これに関して少し個人的に勉強させて頂いたんだけど、「宗教」という言葉が書物に書かれて広まったのが明治時代って聞いたんですが、そこまで古い言葉ではないようなんです。この「宗教」という言葉に何かあるんじゃないかなと。

もう一つ、2019年のデータで、「新しい宗教(新宗教)に信頼をおける」というのが、1000人を対象にした調査で0.9%。全く信頼できないが47%なんです。

伝統宗教は「信頼できる」が多い、例えば神道だと「ひじょうに信頼できる」と「まあまあ信頼できる」をあわせて65%なんですよね。これって何が起こってるんだろうなと。

僕としては、伝統宗教がレクリエーション化されてるということではないかと思うんですよね。旅行行った先で、レクレーションとして、楽しみとして神社に行くとか、宗教がそういう概念に変わってきてるという傾向ではないかと思うんです。

C男さん(家庭連合、壮年)
リクレーションっていうのは確かにそうだと思うんですけど、悪い意味で言えばリクレーション、いい意味で言えば、宗教が道徳となり、道徳が文化になる。

D男さん(家庭連合、壮年)
宗教に対するネガティブイメージがあると思うんです。例えば神に対するものとか、仏様とか、色々あると思うんですけど、私も若い頃、神ってすごく胡散臭い、怪しいと思ってたんですけど。だからそういうイメージがあるのなのかなと、ちょっと思いました。

中川さん(キリスト教牧師)
でも、オウム事件の前は結構宗教ブームみたいなところがありましたよね。

B男さん(新宗教信徒)
そうなんですよ。80年代、例えばワイドショーなんか見てると、新興宗教が取り上げられて肯定的なこと言われるんですよ。そういうコーナーがある。神霊コーナーとか。

中川さん
ありました、ありました。

若い参加者
え~  😲

B男さん(新宗教信徒)
オウム真理教の麻原彰晃さんが、とんねるずのバラエティの番組に出演したとか。

若い参加者
え~  (*_*)

B男さん(新宗教信徒)
そんな時代ですよ。それが当たり前だった。僕の感覚でいうと、宗教という言葉の概念、定義が捏造されすぎたんじゃないかなと見てますけど。

宗教をどう伝えるか

最近YouTubeで何十万登録されているアメリカのキリスト教の牧師さんなんですけど、Tシャツ、ジーンズなんですよ。若い牧師さん。集まってる子もみんな若いですね。キリスト教の教義を変えるわけじゃないけど、見せ方を変える。

渡邊・大教会長(家庭連合牧会者)
私が、20歳ぐらいの時かな。新潟に住んでたんですけど、東京の方に用事があって来た時に、新宿東口のアルタ、あそこの画面に、創価学会の広告がバーンと出てたんですよ。それで、動画でスケボーしたりして、最後に「創価学会!」ってローマ字で「バーン!」って出て。

なんか「攻めてる」と思って、かっこ良かったんですけど。でも結局、宗教っていうと、家庭であるとか、そういう、もっとほんわかした方向に流れていくみたいな。そういった日本の文化的土壌であるとか、いろんな考え方があるとは思うんですけど。なんかカジュアルで攻めるっていうやり方とか、その見せ方を変えるっていうだけで、うまくいくともなかなか思えない部分はありますよね。

B男さん(新宗教信徒)
これに関して、多分ビジネス的なマーケティングだと思うんですよね。日本はマーケティングが弱いって言われてた時代がずっとあって、最近はどうか分かんないけど。

例えばコカ・コーラのCMの打ち方ってすごく上手くて。ターゲット層を中学生って決めたら高校生を使うんですよ。ちょっと上を使う。

その中学生のどのターゲットって決めた時に、どの辺の感情に入るかも見るんですよ。それで、その感情のちょっと上をやる。

スケボーで、スケーター、出演者を選んでCMを打つんですね。

それで最後の1秒だけ一杯コーラ飲むと。そこだけしかコカ・コーラ出てこない。あとは全部そのスケボーのスケーターです。このお兄ちゃんになりたいって感じで。そういう戦略、マーケティングですね。

中川さん(キリスト教牧師)
家庭連合さんで、僕が良いと思ってるのは、「宗教二世の問題」が出た時、宗教二世の人たちが出て、戦うじゃないですか。時代に切り込むというか、時代の要請に対してちゃんと応えようという、そういうところが凄いなって思います。

E男くん(家庭連合、青年)
結局、宗教っていうのが、何を伝えたいのか、そこがもっと明確になっていく必要があるのかなって思います。

僕も子供がいますけど、礼拝に来ることを伝えたいわけでもないし、朝に「み言」(聖典等)を読みなさいってことを伝えたいわけじゃなくて、どちらかというと生き方とか、生き様とかを伝えたいって思っています。

極端に言うと、会員にならなかったとしても、その生き方が伝えられるんだったら、そっちの方がいいんじゃないかって思っていて。

自分自身も両親から学んだのは、会員になるかどうかよりは、生き方とか、人との対し方だったりとか、物事の捉え方だったりとか、そこに共感したし、そこを学んで来させてもらって良かったなって思っています。

最近だと、例えば「鬼滅の刃」とか見てたら、めちゃくちゃ宗教的っていうか、悪霊みたいなのが出てきたり、人の本心というか、鬼が、敵が死んでいく時に、その人の素直な、実はこういう背景があって、そういう恨みを持ってしまったとか、そういう人のリアルな精神みたいなものが出てきたりとかしてますよね。

そこにすごく訴えかけられるものがあるから、人気になったりしているんだと思います。

そういう時代に切り込むだったりとか、人が誰しも持っている、こう生きてみたいとか、こういうのを大切にしたいとかがあって、そこに訴えかけられるものをいろんなフィルターをかけず伝えきれるか、みたいなところに焦点を絞ってやっていくのが、大事なのかなと、思いました。

A男くん(家庭連合、大学生)
「伝統と革新」みたいなこと言われるんですけど、革新という面では、先ほどおっしゃったようなマーケティングとか広報っていう面は本当にやっていかないといけないって思いながら、伝統で言ったら、我々がそういう提示できる価値をいかに残して、それを「世の中のニーズに当てはめていく」みたいなのが重要かなと思っています。

自分は専門が「社会保障」なんですけど、そういう世界ではカウンセラーみたいなソーシャルワーカーというのがあるんですけど。ホームレスの人だったりとか命の電話とか、そういった人たちと話をしながら、やってることは宗教者が信徒の懺悔を聞いて、共感して、それで助言して、みたいな、本当にやってることは同じで、そこにものすごい需要があるんですけど。

でも、そこに我々が入っていけてないっていうか、そういう意味で世間のニーズに応えきれてない部分もあるんだなってすごく感じてます。

キリスト教がそこで発展してきたっていうのは、そこに対してすごい価値視されてきた、ボランティアとかで価値視されてきた部分があったんだなと感じていて。だから、いかに世間のニーズに信徒だけじゃなくて世の中の人にも話を聞いてあげられるような動きができるかっていうのは、すごい重要だなと思いました。

F男くん(家庭連合、大学生)
宗教が目指していくべき世界って、現実とか目の前に向き合っていくと、勢力の拡大だったりとか、信徒を増やすとか、教義を広めるとか、そういうところに終始しがちかなって思ったんですけど。

ただ、最終的な理想は、宗教がない世界っていうか、全体的な倫理基準だったりとか道徳観念が引き上がった状態で行くならば、宗教が必要なくなるかなって思います。

だから全体的な倫理の基準だったりとか、価値観、道徳価値観を引き上げていくこと、それが結構、共通認識として大事なのかなと感じました。

「信教の自由」とは

渡邊・大教会長
宗教をどう日本の社会で理解してもらうかという話の一方で、「その宗教でないと生きることができない人たちをどう守るか」という観点がありますよね。

宗教2世の問題なんか特にそうで、自分の意思で入ってるんじゃないんだけど、自分はその家庭の中で、その中で薫陶を受けたりとか、命を支えられて、その価値観を大切にしている。

だけど、「それが脅かされる」というのが大きな問題になります。「信教の自由」は、そこに根差して出てきてる話だと思うんです。

というのは、宗教者じゃなければ「信教の自由」の意味を「宗教者の信教の自由」と見ると思います。「私たちの教団」を見ながら感じるんですけど、私たちが潰されそうだから「ちょっと待ってよ」と、これももちろん権利ですけど。

フランス革命の「ライシテ」(政教分離の原則)ですよね。「宗教は国家に属するものではなく個人に属するものなんだ」というところから、それを保障するというのがあって、もっと遡れば、カトリック、プロテスタントの宗教改革での「三十年戦争(1618~48)」があって、「ウエストファリア条約(1648)」で両教徒が同じだと認められたと。

ウエストファリア条約は妥協ですよね、もうこれ以上殺し合いたくないと。それでお互いが正しいと認め合おうと、お互いを尊重し合おうっていうところから始まった。

それは尊いことなんだけど、ある意味絶対的であった一つの教えから相対的な視点が生まれて、それで啓蒙主義のようなものが生まれてフランス革命になっていく。

何が言いたいのかと言うと、信教の自由がないと、生存権が脅かされるわけですよ。

中世以降、近世のヨーロッパでお互い命を奪い合ったので、それで「信教の自由」が大切だと。その伝統文化、教えがずっと来て、キリスト教圏とか西洋ではアメリカに至るまであるんだと思うんですね。

でも、日本で今、「潰されそうになる教団が訴えている」こと以外の意味っていうのが見えないというかですね、普通の人たちにとっては。そういう意味で、「宗教って本当は何なのか」ってことを訴えることが重要だと思うんです。

もう一方で、この宗教がなければ生きらない人たちがいるんだという、宗教マイノリティってそういうことじゃないですか。ここに対する理解も、宗教二世というのは、被害者の面だけではなく、その中ででしか生きれない人たちの立場をどう守るかも、すごく大切じゃないかなと思っています。

なぜ宗教が必要か

C男さん(家庭連合、壮年)
他の宗教とか宗教をしていない人が私たちを見ると、「お前たちは自分のやりたいことをやってるだけだろう」みたいなところがあると思うんですね。

それで、「なんで宗教が必要なんだ」っていうことで話をすれば、「幸せになるため」とか。総じていえば、教義ではなくて、「宗教は何を目指してそもそもあるのか」ということで連携を組めば、お互いに理解できるんじゃないかなと思うんです。

B男さん(新宗教信徒)
個人的な思いとして、子供の頃からうちは母親が毎年のように宗教を変えてるような家だったんですよ。幼稚園はキリスト系のとこに通って。それから仏教系のとこに連れられてとか。毎年のように変わるんです。だから拝み方も毎回変わるんですよね。

宗教とは何か、この辺が大きく共通してる点じゃないかなっていうポイントに関しては、僕の個人的な子供の時代からの思いとして「幸せになりたい」って思ったことないんですよ。子供の時に、もう幸せだったんだから、宗教に携わることによって幸せになる、だから宗教やってるって感覚がなかったんですね。

何がやりたかって、宗教をずっと追い求めてた個人的な話をさせてもらうと、「謎を解きたい」ってとこなんですよ。「死んだらどうなるんだろう」とか。

仏教の先生によく言われたのが、「死んだら天国に行って数百年向こうで生活し、また修行のためにこっちに戻ってきますよ」と。それで「戻ってくるんだったら、なんで記憶がないんですか」と聞いたり。

この記憶を消されるってこと。最大のミステリーを抱えながら今の宗教に出会って、今勉強してるんですけど。僕にとっての宗教の共通点としては「幸福にする保障はない」と思うんですよ。

何が共通してるかっていうと、「世の中に存在する最大のミステリーを解いてくれる学問」。

学校では教えてくれないじゃないですか。宗教で学ぶことって。そこが単純に共通してる点かなと。

だから宗教が存在しなくなったら、どこでそういうものを学ぶんですかって。人間に本当に必要なもの、学校じゃ教えられないものだと僕は思います。

中川さん(キリスト教牧師)
僕は生き方ですね。殉教に対する憧れなんです。だから「どう生きるか」とか。千葉真一の『影の軍団』をちょっと見過ぎで、どうやって使命のために死ぬかって。

生き方とか苦悩みたいみたいな、そういったものなので。「良い世界実現しよう」とか、そういうのはないんですよ。

B男さん(新宗教信徒)
(若い参加者に)皆さん、なんか「知りたい」っていうのは、なかったですか。それでお勉強されてるんじゃない?

A男くん(家庭連合、大学生)
そこを求めてくる人もいますし、「ここにいたらなんか楽しいんだよね」みたいな人もいます。人によって全然入り口が違うんだと思いました。

E男くん(家庭連合、青年)
人文科学系の論理とか科学で説明しきれないような学問分野が日本では軽視される傾向があるんですよね。大学の流れとしては人文系の学科はどんどん縮小傾向で、実学的なのが広がっている傾向があります。

スピリチュアルとか宗教が扱っているようなのが、西洋では科学技術とか哲学的なものよりもっと崇高なものとして捉えられたりしているけど、日本ではもっと具体的に生活に役立つとかが重んじられて、精神的世界とかに対して捉えられ方が崇高さをもって見られないので、そういうのが重んじられない文化があるのかなと思いました。

渡邊・大教会長
鈴木大拙(アメリカに禅を伝えた人)の『日本的霊性』って知ってますか。読んでいくと聖と俗が合致しているのが日本的なものだと。だから霊性といった時に、祈りとか瞑想とか、そうした中で霊性が育まれるのではなく、それを生活、畑耕したりとか、家でいろんなことやったりとか、そこに霊性が宿るっていう感覚を日本人は持ってるんだって言ってるんですね。

孔子の儒教も元々は天という一神教であるはずなんですけど、結局、倫理、道徳としてになりますよね。

西洋的な一神教とか宗教観と、東洋的な宗教観っていうのは、簡単に言うと西洋は聖と俗を切り分けていく。でも日本だけじゃなく東アジア、韓国も含めて、陽陰が混ざるというかですね、そういう宗教観があるんだろうなって、そんな感じはしてます。

だから、宗教って役に立つもんだっていうのが、もしかしたら日本にはあるのかな。だから、役に立たないんだったら、みたいな。

道徳と宗教性

A子さん(家庭連合、大学生)
道徳というと人を中心に、「こうしたら周りがこうだから良くないよね」みたいな感じで言うのと、宗教性は中心が神様だから「神様がこう願われてるからやっていく」というので。

道徳性をどう宗教性に変えていくのか、道徳性が高いんだったら宗教性に繋がるはずなのに、繋がれないものって何なんだろうって思ったんですけど。

とも
道徳は宗教性から来るはずだと思うんです。宗教性が高まれば道徳性も高まるはずなんだけれども、でも、道徳性が高まれば宗教心が高まるかっていうと、そうではないとは思うんですね。そこはちょっと考えて整理しないといけないけど。

渡邊・大教会長
社会生活をする上で他人に配慮していくとかが道徳にもなりますよね。「道徳は人と人との関係の中でも生まれてくる」ので、そこら辺が今言われたことの整理だと思うんです。

E男くん(家庭連合、青年)
個人的には、僕は二世なんですけど、本気で神を求め始めたのって、自分の力ではどうにも許せない存在だったりとか、愛せない存在だったりとかが出てきた時に、何かに頼らざるを得なくなって、そういう中で、神が自分にとっての必要な存在になっていったというか。

道徳というのが、自分の中での良心というか、そこで完結されていて、そこに挑戦して生きていたけれども、難しくなった時に、宗教っていう、自分とは隔絶された存在として、もっと崇高なものを求めるようになって、それで、そういうところで、宗教性みたいなものが出てくるようになったなっていうのは思っています。

愛せない苦しみみたいな、それで神を求めるようになるみたいな、そういうのがあったなとは思います。

南原繁って、東大の元総長で、クリスチャンの方がいて、その人の『国家と宗教』ってあるんですけど、プラトンが言ってる「理想国家」は、哲学者が中心になって国が運営されて理想国家になるみたいな。キリスト教でいう「神の国」は、人間を超越した存在を中心として、かつ、その存在に従って生きようとする人が中心になって建つのが、神の国の姿なんだ、ざっくり言うとそういう話です。

だから、人間だけで完結されようとしているのか、それとも、人間以上に崇高な存在を中心としてやろうとしているのか、そこに道徳性と宗教性の差みたいなのがあるかなと思ってるんです。

中川さん(キリスト教牧師)
基本的に新興宗教は、時代の要請とか、時代の感覚をちゃんと理解して、そこに応えてるから、成功してると思うんですよね。だから、新興宗教は優れてるなと思うんです。

でも新興宗教の「どうなんだ」っていうのは、そこについていけなくて、こぼれちゃう、倫理性とか道徳性が高いと、そこから漏れる人が多くて、じゃあその漏れた人が倫理性が低いのかって。そうすると背教者みたいな、それはどうなのかなと。

渡邊・大教会長
私の理解というか、私自身の実感ですけど、私が本当に神と一体化するような成長というか完成が私一代でできるかと言ったら、できないと思うので。

でも、家庭という大きいユニットの中で愛が受け交わされて、それが二代、三代と受け継がれる中で、道徳観であるとか宗教性であるとか、そういったものが高まっていきながら、最後はどこかでたどり着くだろうっていうのは信じているのでやってるんですけど。

私は二世ですけど、私も繋ぎとか肥しだと思ってはいるんですよね。次の世代に対してどう良きものを残せるだろうか。我々が信じてきて、かつ世界のためになれることは何があるかっていうのを思いながらやってますし、それは家庭という実像の中に可能性があると信じてます。おそらくそれは家庭連合全体の中で共有できることだと思います。

出会いと人生

中川さん(キリスト教牧師)
元寇の時に北条時宗が言った言葉らしいですけど、「大事を為すは人間が根本である」というのは、僕は父親から受け継いだもので、人間がどういうものかって、次世代にも受け継いでいくものがあって、そのために自分が何かするって、すごい大切な話で、僕一人の発想からは出ない。

僕が人生で良かったなとか成長したなって思えるのは、人との出会いでなんですよ。僕も「とも」さんと出会って開かれたっていうか。だから人間は扉でもある。

人を作るっていうよりも、その人から引き出していくっていう働きはすごい大切だなと思って。

宗教二世の問題だって、いろんな人と出会えばいいんじゃないかと思う。

親は一番最初に出会う先輩だけど、人生の先輩なんて、いろいろいるから。教会でも。そこで出会って良いものが、扉が開かれれば、だから扉を持ってるのは人かなって、人が面白いなって思いました。

渡邊・大教会長
今のお話で宗教二世の問題っていうので出てきたので。私が家庭連合の教育機関で10年間勤めていて、私より若い世代の二世たちの教育をずっとやってきた経験で、少しだけ。

いろんな二世の子たちがいて、頑張っている子もいるし、家庭で苦しんでいる子もいます。私たちは家庭が重要であり、親子の関係が人格を形成する上での核心でもあると教えているので、問題があると、家庭がどうなってるのか、親子の関係はどうかって遡って見るところがあるんですね。

それで相談を受けると、これはこうなるしかないよね、っていうケースもたくさんあります。

だけど、その子がもう20代、30代に入っていこうとする時に、じゃあ根本に立って家庭変えましょう、親変えましょうって、これもう無理な話なので。

親がそうだとしても、家庭がそうだとしても、あなたがよく生きる、あなたがどういう人生を生きたいかという方向で懸命に生きるしかないと。

それに対して、教会は支えることはできるし、むしろ支えてくれる。だからあなた自身の意思なんだよって最後は言うしかないんですね。それで、へそ曲げる子もいれば、「ありがとうございます」って言ってくれる子もいます。

今、中川先生言われたことで、ふっと思い出したので、そういうことじゃないかなと私は思ってはいるんです。

B子さん(家庭連合、婦人)
最近いろんな教会に行ってみてるんですよ。宗教を信じている人たちと親しくしたいなと思って、近所のバプテスト教会に行きました。それで信徒代表の方が出てこられて、「統一教会です」と自己紹介して、お話ししようと思ったんですけど、「お話することありません」とおっしゃって。それで「礼拝に行っていいですか」と聞いたら「どうぞ来てください」って言われたので、行ったんです。実はその方は、私が礼拝に来ると思ってなかったかようなんですけど。

でも、礼拝に出て、お話を聞いて、いろんな交流をしてきました。そしたら、次の日、私の家のポストに手紙が入っていて、その信徒代表の方から「ぜひまた来てください」ってあったんですね。家の近いところの宗教者の方々と交流したいなと思って、そんなことしています。

とも
どうも皆さん、ありがとうございました!

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