ガラスの破片を素手で集めている感覚


私はなぜこの身体で生まれてきたのか。なぜこの身体で生きていると自動的に「女性」というカテゴリに割り振られてしまうのか。トランスジェンダーであるとは何なのか。遅くとも思春期頃からはっきりと意識し向き合ってきた疑問だ。
社会人チームで女子サッカーをしていたので、田舎育ちながら幸い、性別違和を抱えるひとまわり年上の人々と交流があった。

田舎なので、やはり伝統的な二元論や「男らしい」男になることに縛られている人(あるいは、「男だったら男らしくしろ、でなければやっぱりお前は女だ」みたいに言われれて縛られている人)が多かった思い出がある。中でも仲良くしていた6歳上の先輩は、誰よりも性別違和を抱えている(ように見えた)けど、完璧な「男」になれないことや、性ホルモンの副作用や、手術の費用や、医者との合わなさから、GI医療に踏み切れなくて、最後にあった時には「最近は諦めて頑張って女として生きられるか試そうと思っている」と言っていた。(当時は全然わからなかったが、同じような年齢になって私も全く同じことを考え始めた節がある)

私もホルモン療法は受けていないし、各種手術も受けていない。お金もないし、シンプルに怖いのだ。小さい時は病院にかかる機会がとにかく多く、検査や注射には嫌な思い出ばかりなので、できれば病院に近づきたくないし、自分の身体にむやみに化学物質を取り込みたくない。これは儒教とキリスト教がある種渾然一体となった価値観の中で育った中で培われた「親・神から授かった身体を改変してはいけない」という強迫観念に近いものがあると思う。小さい頃はほぼ毎日のように病院に行って血液検査をしてたくさんの薬を処方されていたけど、飲んではいけないと言われた薬、食べてはいけないと言われたものも多い。特にホルモン物質や中枢神経に作用するものは絶対ダメという感覚が抜けないし、どれがダメなのかわからないので市販の風邪薬は怖くて飲めない。漢方で何とかなっているからいいけど。

私はトランスだと言えるのだろうか。ある社会的属性が共有するべき痛みや身体的経験を共有せず、その属性を名乗ることができるのだろうか。その前に、ある社会的属性が共有すべき経験というのがあるのだろうか。男性器は欲しいけど、男性器があることが人を男性にするのだろうか。「ちゃんと」診断を受けて、「ちゃんと」トランジションに身を投じている人たちの前で私は自分が恥ずかしくなるし、嫉妬に近い気持ちを感じる。

ここ数年くらいは、それでも自分と身体の折り合いがついていた。毎朝鏡を見るときは「今日もちゃんと男の子に見える」と思って家を出る。たまに、(2丁目でさえも)「お姉さん」と呼びかけられたり、ちょっと高いレストランでレディー・ファーストだと言われて先に通されたりして、私が「女性であること」が急に降ってくる。一番ひどかったのは、彼女とデートをしていたときに、観光地の開けた場所で客を集めていた大道芸人の人に遠くから「そこの若いカップル!…あ、ごめんなさい、女性の方でしたね。お友達同士ですね」と言われたことで、未だに折に触れて思い出す。

何が私の足枷になっているのだろうか。身体を受け入れて生きていけるのなら、医療に頼らずそのままでいいのではないか。社会的に男であるとはどういうことなのか。身体的に男であるとはどういうことなのか。何年も前からぐるぐる考えている同じ問いが最近また頭から離れなくなったので、まずは私と身体の関係を整理していきたい。

胸について

ついている。という感じ。幸い全く存在感がなく、カップの入ったブラジャーをつけない限り、目立つことはないのでラッキー。
サッカーしている時は、平たい胸でボールを受け止めている感じがするので、胸でボールをトラップをする練習が本当に好きだった。
嫌いではないし、むしろついていることを面白がっている。

顔について

どちらかというと男っぽい顔立ちだと思うし体毛も濃い。髪の毛が短いとき1人で歩いていたり男友達と歩いているとよくキャバクラのキャッチの人に話しかけられた。ただ、話しかけられて、こちらが何か言う前に「…あっ」みたいな反応をされるので、人がどこでその人のジェンダーをジャッジしているのか心底気になる。何をなおせばいいんだろう。仕草?歩き方?
いつか髭を生やしたい。でも「女性」として認識されているうちは剃る方が社会的に良い気がしていて、髭は気付いたら剃るようにしている。たまに放置してあちゃ〜となる時もある。ゲイやシスヘテロの男性と交際していたとき、毎回髭伸ばしてよと言っていたけど、おそらく自分が伸ばしたいから人に要求しているだけだったなと最近やっと気づく。

体格について

ふたサイズ大きめのシャツを着てダボダボのズボンを履いたら隠れるし、ある程度男っぽい肩幅に見える。血管が浮きやすいので、それも男っぽく見える。これは昔から。
筋トレしたいけど、昔トランスのお兄さんに、あ〜みんなそれ言うけど、思ったより成果出ないんだよね。と言われたので、そうなんだ〜と思ってやってない。いつかはボルダリングを趣味にして腕の筋肉つけたい。

性器について

全然嫌いではない。シンプルに男性器ではないのは長年不思議でもあり、シス男性とセックスしていた時は、騎乗位をすると挿入前後は自分についているように見えて、それが楽しいからシス男性とセックスしているみたいなとこがあった。
でも、こんなにマスキュリンな見た目で女子トイレに入ったらギョッとされるのに、無意識の歩き方や仕草でそこら辺の大道芸人やキャバクラのキャッチには「あ、女性だ」と思われるのなら、男性器がついていることにどんな意味があるのだろうか。男性器がついていることが人を男性にするのだろうか。膣は埋めたいとずっと思っているけど(これもシス男性とセックスしてた理由かもしれない)、やっぱりあんまり性器については考えたくないかもしれない。

当初の疑問に戻ると、私はトランスを名乗れるのだろうか。あるがままの身体を引き受けつつ、トランスであることは可能なのか。私は確実に女性ではないし、男性として自分にある程度は満足して生きている。たまにはリップを塗ったりメイクをしたり、ネイルをしたりするし、カップのあるブラジャーをしたりして本来何もない場所に「何かがついている」ことを楽しんでいる。
私は身体とどう付き合っていくべきなのだろうか。トランスを名乗りトランジションを引き受けない選択はできるのか。

24.08.02追記
最近いろんな人の話を聞いていて、「自分が”男”であることに向き合うこと」と「”男”になれないかもしれないこと」が「怖い」だけだったんじゃないかと気づいた。「男」として「理解可能」な存在になりたい。

中学校は全然行ってなかったし、高校は思春期でナイーブな男性性を振り撒くことに問題意識を感じず「女だけど男」みたいな枠で生きていく・かつ受け入れてもらうことが可能だったから(もちろん「あなたは女だよね?」みたいなポリシングは多々受けたけど、全然気にしていなかった)、大学に入って一番壁にぶつかったように思える。

大学で「女性としての性自認を有していない」とカミングアウトして男性として振る舞うことは、緩やかにホモソに属し、女の子たちをジャッジする側に回ることだった。また結構な頻度で「おかしい」と言われていたので、(今では普通に差別だと思うけど)だんだん私の方がおかしいんだ、私は女性になりたいのかもしれない、女性として振る舞わなければならないと思うようになった。
大学時代二年ほど付き合ったパートナーは、男性に割り当てられ(わざわざ聞いたことないから知らないけど多分性別に違和感を持っているわけではない)いわゆるゲイで仕草や言動はかなりフェミニンだった。「男」という揺るぎない自認を持ったまま、女性として振る舞うことは可能なのだと気づき、ついには過剰な女性性を積極的に表出する人間になってしまい、「男」とはどう振る舞うものか、どう身体を使うものなのかわからなくなってしまった。というか、「男とはどう振る舞うのか」は国や文化によって違うし何ら本質的なことではないのでますます、どんな仕草や歩き方をすれば「あなたは男ですね」とパスできるのか本当にわからない。

田舎で育ったことは上にも書いたが、子供時代を通して
- (家父長制なので)男性が絶対的な権力を持っている、常に優位にいる
-  田舎のホモソの中で認められる「男らしさ」がある(シス男性たちも、またそれを獲得しようとしたり示そうとしたりすることに必死である)
ことを学んだ。女性を女性だからという理由でモノや道具みたいに扱う場面を親戚の中でも何度も見てきたし、学校では女子生徒の声よりも男子生徒の声の方が「聞かれる」状態だった。

最近、留学生の友人の帰国前パーティーがあった。小さいライブハウスで数人がDJを回していく感じで照明も程々に暗い。一緒に行った女友達がナンパされて、いきなり肩に手を回されていた。近くにいたけど表情からは嫌がっているのがわからず、ずっとサークルでバンドをやっていた子だったので自分で対処できると思って、少し様子を見てまだしつこそうだったので別のところで踊ろうよと行って引き離した。結果的には嫌だったらしいので、嫌なら嫌だって表情してよ〜と思うけど、愛想よくしていなきゃ見たいな気持ちもすごくわかる。
ただ、肩に手を回し始めた時あたりに、「俺の女(友達)に手出すなよ」みたいな気持ちになって手が出そうになってしまったので、これは自分の問題だけど、自分が育つ中で身につけた「男性性」に依拠しない上手い立ち回りってなんなんだろうかとまた疑問が増えた。

周司あきらさんの『トランスジェンダー男性学』読み直したい。

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