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本当はドロドロだった平安時代。貴族のお姫様のトイレの中身の行先は…

平安時代。
十二単のお姫様のお住まいになるのが、当時の貴族層の大邸宅だった寝殿造だった。邸内には溝川が引き込まれ、主人が舟遊びを楽しむ大池に水を供給していた。そして溝川は、生活排水を洗い流す意味も込められていた。その最たるものが糞便だった。

便器の内容物は、水で洗い流されていたのだ。当然、水環境に悪影響を与えることになる…

源氏物語成立期から遡る事200年ほど前の弘仁10年(819年)、時の朝廷はお触れを出している。

昨今、都の邸宅では塀に穴を空けて溝の水を敷地に引き込んでいる。水を引き込むことに関しては咎めない。だが『汚穢』を塀より外に流し出してはならない」。

だが同様のお触れは天長9年(832)、斉衡2年(855)、貞観7年(865)にもたびたび出され、お触れが決して守られていなかったことを物語っている。

さて邸宅には貴族が住まう。そしてお仕えの使用人たちが住まう。彼らは当然排泄行為をする。排泄物を受け止めた側溝は溢れ、ほとりの邸宅を浸す。
前記の斉衡2年の記録では溝さらいの奨励が求められているが、やはり守られなかったようである。

そして溝を埋める汚穢は人間や牛馬の排泄物のみに留まらない。上流階級はともかく、庶民階級では社会保障制度など望めない時代。そして葬送儀礼はほぼ「風葬」に近かった時代。溝川には、身寄りのない者の遺体までもが放り込まれていた。

発掘調査によれば、右京八条二坊二町の西靫負小路の溝の平安時代前期の埋め土からは、木片はもとより犬の死体に人間の首、朱雀大路の側溝からも牛馬の骨に交じって人間の下あごの骨が出土したという。

文字記録、とりわけ後世に残すことを目的として改めて記されるものは、都合の悪い時効は排除される。

だが大地は人間界の明暗、光と影をすべて飲み込んで包蔵する。千年後の発掘調査で出土して、記録に残らない実態が白日の下になる。
筋肉も出土品も、裏切らないのだ

以上は、清少納言や紫式部、そして光源氏も属していたことだろう上流階級の実態である。


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