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私の学び

先生は言った。「勉強とは受動的な行為であるのに対して、学びは能動的な行為である。」
突如として言い放たれた先生の言葉でただでさえ静まり返っていた教室から、ありとあらゆる音が消えてなくなったような気がした。それほどまでに先生の言葉は私の心の奥にある何かを突き動かすだけの力があった。私の脳内の辞書には「勉強」、「学び」共に記されていたが、「学び」の方は意味の部分がはっきりと記されていなかった。当時、中学に上がりたてであった私にとっては似通った意味を持った二つの単語に過ぎなかった。
こうして考えている内にその日のホームルームは終盤へと向かっていた。私がもう一度先生の話に耳を傾けたときには明日までの提出物の話や来週に控えた体育祭の話に移り変わっていた。その話に耳を傾けながらも私は考えることをやめなかった。先生がなぜ突如として「勉強」と「学び」の違いについて触れたのか。理由がわからない。それは先生が理由に触れなかったのではなく、私の脳内が「学び」という言葉に支配されてしまったが故に起きた、ただの事故である。結局その日は先生にもう一度理由を尋ねることなく帰宅した。

それから時は経ち、高校生の私は校舎の一階にある自販機の前で立ち尽くしていた。毎日ここで今日の缶コーヒーはどれにしようかと三種類しかない缶コーヒーのパッケージと睨めっこしては同じ缶コーヒーを選ぶという退屈な日々を送っていた。毎日のように出される課題と任意という名の授業の強制予習をこなす日々に心も体も疲弊していってるのを頭では分かっていても、それから目を背けようとしている自分が確かにそこにはいて、そんな自分にさえも腹立たしいという気持ちでいっぱいになっていた。この時の私にとって、学校の授業はただの「勉強」でしかなくなっていた。こんな毎日に嫌気がさしていた時にあの日言われた先生の言葉が脳内で蘇っていた。あの日言われた言葉の真意を自分なりに考えてみることにした。

「勉強」という行為自体に疲れていた私にとって「学び」が「勉強」とかけ離れた場所にいることだけは理解していた。しかし「学び」がどんな行為であるのかという問いにすぐ答えを出せるほど私は賢くなかった。とりあえず「なぜ勉強をしなくてはならないのか。」という問いの答えから導いてみることにした。この問いの答えに関しては、自称進学校にいた私にとって考えることは容易いものであった。「名の知れた大学に行くためである。有名大学に行くことで全国各地からやってくる賢い学生達と交流を深めることが出来る。またその後就活を行う上でも有利に働くと考えられるから。」これが問いに対して私が導き出した答えであった。また私が導き出した答えのように行動しようとすると、模試の偏差値を上げ定期試験で良い点数を取り学力を上げていく必要がある。この学力を上げていく過程こそがきっと「勉強」と呼ばれる行為なのだろうと私は考えた。
この考えに基づいて「学び」をもう一度捉え直してみると、非常に自由な行為であると私は踏んだ。日本の歴史を振り返れば明白であった。学問について触れるということ自体が貴族のみに許された行為であったのだ。そして彼らは学問に触れたり詩・俳句・和歌などの娯楽に興じていた。学問に触れることも娯楽の一種であったのではないかと行き過ぎた妄想で頭が一杯になったところでふと我に帰る。

ただそんな脳内で構築した想像上の人々でシミュレーションを行い、自分なりの「学び」を必死に見つけようとしていた。自分の中で興味のあることや好きなことに関する知識を能動的に吸収することが「学び」なのではないだろうか。
それこそ今授業でやっている内容だって自分の考え方次第で「学び」へと変貌するのかもしれない、そう思うとこれから始まる一限の授業に対するやる気が沸々と湧いてくる。

あの日の先生はこの私の導いた答えになんて言葉を返してくれるだろうか。もし間違った答えだと言われてしまったらどうしよう、そんな不安な感情が脳裏に一瞬よぎる。しかし間違っていても構わない。そしてまた自分なりの答えを考えることもきっと「学び」であるから。いつも買っている缶コーヒーの隣にある別の味の缶コーヒーを買ってみる。どんな味がするのかと胸を高鳴らせフタを開けようとする。この瞬間に一限のチャイムが校舎中に鳴り響く。慌てて教室に向かう私。
なんだか今日買ったコーヒーは飲む前から美味しいような気がすると考える私の顔は少しだけ笑みを浮かべていた。

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