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「学校と妹」 4

夏の暑さは全然消えていかないというのに、夏休みの宿題として課された "一行日記" の用紙の空白だけが少しずつ消えていく。その用紙には「塾に行って勉強した。」という文言しか書かれていなかった。これではまるで夏休み最終日に慌てて終わらせたように見えるではないか、ふとそんな感情が込み上げた。しかしそこに記された文言は紛れもない事実であった。よく飽きもせず同じ文言を書き続けたものだと、もはや感心している自分がいた。ただ"一行日記"のために時間を割くことができない程にまで僕は疲れ切っていた。疲れ切った僕の目の前には立ちはだかったのは、志望校主催「第一回模擬試験」であった。この試験はここ数ヶ月間の勉強が結果として現れる絶好の機会だ。そう、絶好の機会なのだ。ただこの時の僕にとって模擬試験を前向きな出来事として捉えることはかなり難しいことであった。
何故なら嫌々やってきた受験勉強の結果がはっきりと出てしまうことへの恐怖感が尋常ではなかったからである。それもその筈である。夏休みに入ってからというもの僕は、受験勉強をしているように母や塾の先生の目を欺きサボるようになっていた。模擬試験の結果からサボっていたことが母や塾の先生に見透かされるのではないかという気持ちでいっぱいになっていた。今の僕の気持ちを一言で表すならなんだろうか。そうだな、「不安」かな。


インスタントのカフェオレを二つ作り、妹の部屋へ持っていく。しかしどうも部屋の扉が重くて開けられない。いや開けられないのではない。開けないのだ。部屋の向こう側には時間が止まってしまった空間とそれに包まれた妹がいる。この部屋に入ることに躊躇している自分がいた。妹の不登校を止められたかも知れない、不登校にしたのは自分なんだという気持ちで支配される。とりあえずこの気持ちを扉の向こう側にいる妹に悟られまいと表情を繕う。そして重い扉を開く。
「うい、起きてる?」
繕った表情を保ったまま話しかける。話しかけた先には何日着ているかも分からない寝巻きを着た妹がタブレットに映る動画を食い入るように見ていた。机の上にカフェオレの入ったマグカップを二つ置く。
「あぁ、ありがと。」
小さな声でそう呟く妹の瞳の奥には暗闇が広がっていた。こんな日々がいつまで続くのだろうか。部屋に引き篭もった妹に明日はやってくるのだろうか。それがいつになるかは分からない。ただ僕が中学三年間を終え、高校に入学するということと妹が中学一年の三学期を一度も登校できずに終えたというこの二つの事実だけが変わることは決してなかった。


月日が経つと暑さは少しずつ消えていき、木の葉は茜色に染まりイチョウの色で街中は黄色で包まれていった。受験は十一月の上旬。受験勉強に追われる日々も残りわずかとなっていた。結果論ではあるが、僕にとって夏の模試は自分を成長させてくれる機会であったことは間違いなかった。模試を受けている最中から少し勘づいてはいたが、国語の問題がとにかく解けない。この感覚はしっかり結果となって現れた。国語68点。算数92点。やはり過去問を解いてみた時と似たような傾向が今回の結果にも現れた。国語が少し合格点に足りないのだ。つまりは国語が受験勉強をし始めた頃から全く伸びていないことが明らかとなったのだ。この事態は僕の中で最も危惧していたことであった。模試を受ける直前に僕の心を埋め尽くしていた「不安」が見事に的中してしまったのである。この結果を見た母は今まで以上に冷たい表情で「夏休みの間何してたの?」と言葉をかけてくる。
その言葉を受けて、僕は夏休みの時の怠惰な自分を強く責めた。夏休みの最中も頭の片隅に怠惰な自分を改める気持ちがよぎったのにも関わらず、知らないフリをした。

「落ちたくない」
この気持ちが自分の中で沸々と湧き上がってくる。確かに受験勉強などしたくはないし、いまだに地元の中学にそのまま進学したいと思っている。しかしこれまで友達との遊びの約束も断り、自分の趣味の時間も削ってきた。このままのやり方で受験に臨んで落ちてしまったら、これまでやってきたことが全て水の泡になるのではないかと絶望の気配を感じた。僕の気持ちに呼応するように母の僕の受験に対しての熱がさらに増した。

受験の表面的な部分だけ見れば、母と僕の心はこの時ようやく揃ったのかもしれない。時間は残りわずかだがやるしかない、やらねばならないという気持ちに駆られる。

「ここまできたらやってやろうじゃねぇか。」
アニメの主人公にでもなったつもりで吐き出した言葉は秋の空へ飛んでいった。

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