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「秒速5センチメートル」第3話 秒速5センチメートル 感想

ドラマ「真夏のシンデレラ」の中で触れられていたのがアニメ映画「秒速5センチメートル」でした。この映画の存在を私に再認識させてくれた「真夏のシンデレラ」突っ込みどころが多かったドラマでしたが感謝しております。

十数年ぶりに観た「秒速5センチメートル」の鑑賞記も今回で最後です。

ネタバレしているので、未見の方はご遠慮ください。一度ご鑑賞された後に再びお会い出来ることを願っております。



第3話 秒速5センチメートル

目的のない努力

大学進学のため東京に戻った貴樹は、明里を探したということもない感じだった。

やはり明里に対する「好き」という気持ちが消えてしまってるからだろう。人を「好き」になるとはどういうことかは澄田花苗が教えてくれた。澄田花苗は、明里に対して「好き」という気持ちがないことを貴樹に気付かせてくれた。澄田花苗があの桜の大樹のキスの呪縛を解いてくれた。

貴樹に残っているのは「守れる力がほしい」とか「恥ずかしくない大人でありたい」という想いだけ。これらの思いは貴樹を学業や仕事に駆り立てる。

目的のない努力。とうの昔に目的は失われ、努力しなければという強迫観念のみの貴樹。この状態はとても辛い。観ている私も焦燥感に駆られるくらい辛い。

貴樹のこの想いは、そもそも明里が東京から栃木県に引っ越しを余儀なくされ貴樹が明里を突き放してしまった時に芽生えたものである。そして、岩舟からの帰りの電車の中で成長し、それ以降、貴樹が大事に育て、岩舟の桜の大樹のようになってしまった。この「想いの大樹」はもはや枯れ果ててしまっている。でも、貴樹には切り倒せない。この「想いの大樹」を切り倒すことは、今までの自分の生きた証を否定することになると貴樹は潜在的に恐れている。

この呪縛から解き放たれるためには、もう一人の女性の力が貴樹には必要だった。

水野さん

貴樹の独白

「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその想いがどこから湧いてくるのかも分からずに、僕はただ働き続け、気づけば日々弾力を失っていく心がひたすらつらかった。そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いがきれいに失われていることに僕は気づき、もう限界だと知った時、会社を辞めた」

この中で「脅迫的とも言えるようなその想い」とあるが、これは具体的には「守れる力がほしい」とか「恥ずかしくない大人」という想いであろう。

この想いはその対象があってはじめて有効に作動する。その人のために頑張れる。しかし、貴樹にはもはや「明里」はいない。

貴樹には社会人になって付き合い始めた女性がいる。水野という女性。この女性の名字が「水野」というのは、会社の上司らしき男性が「水野さん」と呼んでいたことで分かる。しかし、下の名前は私には分からなかった。

貴樹は仕事を辞める選択をするほどの限界状態の中で、水野とも会わなくなりメールの返信もしなくなる。

水野から別れのメールがくる。

「あなたのことは今でも好きです。でも私たちはきっと1000回もメールをやりとりして、たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした」

あの時、貴樹が明里を突き放してしまったように、ここでは貴樹が水野から突き放されてしまう。

貴樹が守るべき明里を突き放してしまった時に背負った罪の意識は、貴樹が水野から突き放されることで明里への潜在的な罪の意識の贖罪がなされたのである。

貴樹の中の枯れた「想いの大樹」が切り倒された瞬間であった。貴樹の2つ目の呪縛が解かれたのである。

「想いの大樹」に凍結された大樹の魂を溶かすには、水野の「別れのメール」という「水」を「野」に注ぎ「想いの大樹」の凍結を溶かす必要があったのである。

この映画の登場人物で相手に「好き」と明確に伝えたのは水野だけだった…

踏切

明里によってかけられた3つの呪縛のうち2つは澄田花苗と水野によって解放された。すなわち、桜の大樹の元でのキスという呪縛。「守れる強さ」を得たいという強迫観念の呪縛。

残りの1つ、貴樹の明里に対する「好き」の原体験は、貴樹自身によって解放しなければならない。

ふと立ち寄ったコンビニ。

流れるBGMに一瞬足を止め耳を傾ける貴樹。

その表情はとても穏やかである。

雑誌コーナーで貴樹はある雑誌に目を止める。

その雑誌には深宇宙探査機「ELISH(エリシュ)」が太陽系外ヘ脱したことが掲載されていた。

澄田花苗とともに見上げたELISH。1999年のあの時は憧れの想いで見上げたが、自分は地球環境に呪縛されたコスモナウト(宇宙飛行士)にすぎないと思い知らされた。

2008年の今、ELISHが太陽の支配から解き放たれたように、自分も「明里」という呪縛から完全に脱しなければならない。

コンビニで流れるBGMが大きくなる。


いつでも探しているよ
どっかに君の姿を

「秒速5センチメートル」のタイトル。

春。桜の花びらが舞い落ちる中、貴樹は東京に戻って初めて「あの踏切」へと足を運ぶ。

踏切は、線路というこちら側(過去)とあちら側(未来)を隔てる結界の唯一の出入り口。

警報機が鳴り始める。
過去から未来へと進む貴樹。
すれ違いに過去へと渡る女性。
お互い渡り切り、遮断機が降りる。
貴樹は振り返り電車の通過を待つ。
電車が通過をした後、女性の姿がなかったことを確認した貴樹。
明里という幻想が過去へと消え去ったことを見届けた貴樹。
貴樹は、微笑みを浮かべ、踵を返し、未来へと歩き始めた。

秒速5センチメートル

この映画のキャッチコピーは「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」である。

「速さ」は時間と距離である。この映画の女性たちは時間や距離に言及している。

明里は「秒速5センチメートル」と言った。桜の落ちるスピードであるが、桜といえば岩舟の野原の桜の大樹が象徴である。あの大樹に貴樹の魂は凍結されていたわけで、その大樹から桜の花びら(明里)が離れるスピードということかもしれない。しかも毎年繰り返されるのである。貴樹は苦しかったはずである。

澄田花苗は「時速5キロメートル」と言い、これを秒速に直せば約1.4メートル。花苗が貴樹の心に近づくスピードだったと言えるだろう。花苗はこのスピードで、貴樹に人を「好き」になることはどういうことかを貴樹に思い出させたのである。貴樹が花苗を受け入れれば、貴樹は楽になれたはず。でも、当時の貴樹は強迫観念があったため花苗を受け入れられなかった。

水野は1センチ。これは永遠に1センチしか互いの距離が縮まらないという意味。3年を費やしても1センチの接近しか水野に許さなかったという事実を突きつけられた貴樹は思い知る。かつて明里を突き放したのは自分だと。明里との間に永遠に埋まらない距離を作ったのは自分だったのだ。

つまり、貴樹はどんな速度で生きても明里に再び会えない。

このキャッチコピー「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」は誤解を招く一因になったはず。何故なら、その答えは「会えない」のだから。

貴樹がその事実を受け入れるのに必要な時間は、ELISHが地球を出発してから太陽系外ヘ到達するまでの9年だった。それは澄田花苗に教えられてから水野によって突き放されるまでの時間だったのだ。

終わりに

解釈は人それぞれです。そして、同じ人であっても、この映画を観た時の年齢や経験や状況や観た回数等によって異なる感想を持つのでしょう。

私も初回は凹みました。

岩舟駅のホームで明里と両親の会話。電車の中での明里の左手の薬指の指輪。渡さなかった貴樹への手紙の発見。

これらの描写から明里と貴樹はようやく結婚するかと思いきや、明里は別の男性と結婚してるし…最後の踏切の場面では貴樹を待っていなかったし…

主題歌の歌詞の内容も相まって相当凹みました。

でも、何度か観て、この映画は遠野貴樹という一人の男の魂の再生の物語であると思えました。そして、今回、十数年ぶりに観て、改めて、そのことを確信できました。

この映画の第1話の感想で私は「この桜花抄がこの作品の始まりであり終着点だと思える」と書きましたが、より具体的に言うと「桜花抄」のプロローグの踏切のシーンと「第3話」のエピローグの踏切のシーンだけでも物語は成立してしまう、ということです。その場合、どのような過程でエピローグへとつながるのかは観ている人それぞれがそれぞれの「秒速5センチメートル」を紡ぎだせるのでしょう。

小説やコミックがあるみたいですが、私の中では映画で完結したので、今のところ、それらに目を通す必要はないかなと思っています。でも、小説やコミックを読む事で違った感想を抱く可能性もあるでしょうから今後の楽しみにしておきます。

美しい映像、美しい音楽、繊細な言葉、この映画は新海誠の最高傑作だと思います。


映画「秒速5センチメートル」鑑賞記 完

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