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「あいつ」(伊勢正三が描く情景)その3 「地平線の見える街」

前回述べたように、発表順とは逆になりますが「夏この頃」は「あいつ」の後日譚と比定することができます。そして、個人的ですが「あいつ」の前日譚とも言える曲があるような気がします。それは風のサードアルバムに収録されている「地平線の見える街」です。

地平線の見える街

この「地平線の見える街」こそが主人公と(あいつ)がまだまだ無邪気だった頃を歌った曲だと私には思えてなりません。そして「夏この頃」での「あいつが好きだった歌」と「あいつ」での「あいつが得意だった歌」の手掛かりが「地平線の見える街」にあると思っています。

さて、この曲は正やん得意の舞台から始まります。

「汽車はもう出ようとしてるのに あいつと握手のひとつもできない」

あいつはまた旅に出ようとしています。あいつを見送るためにきた駅のホーム。主人公は本当なら握手くらいしたいけど、照れ臭くて出来ずじまいです。

「いつもの気まぐれさ」

笑いながらあいつは言いました。今回はどうやら北の大地に地平線の見える街を探す旅のようです。季節は冬。雪に覆われた大地を見たくなったのでしょうか。この曲から、あいつの性格も浮かび上がってくる感じです。一人でふらっと旅に出かけられる、単独行動が好きな男でしょうね。主人公も半ば呆れ、半ば寂し気です。

ちなみに北海道の中標津町の開陽台というところは330度の地平線が広がっているとか。きっと、あいつも雪に覆われた大パノラマを見たことでしょうね。

おそらく、この旅のどこかで「あいつ」に登場した彼女と知り合い、東京に戻ってきて、彼女を連れて主人公の家へ遊びに行ったりしてたのでしょう。そして、単独行で冬山へ挑み遭難。「地平線の見える街」と「あいつ」の2曲を重ね合わせると、そういう経緯がなんとなく浮かび上がってきます。

さて、例の歌ですが、

「西の窓から黄昏る頃、いつもきまってカリフォルニアの歌が流れてきたものだった」

とあるように、あいつが得意で好きな歌はカリフォルニアの歌です。具体的に歌を特定するとしたら「California Dreamin'(邦題は『夢のカリフォルニア)』」辺りでしょうか。

「California Dreamin'(邦題は『夢のカリフォルニア)』」


この歌は、寒い冬の日は暖かいカリフォルニアが恋しくなる、という内容です。ちょうど「地平線の見える街」にも「今頃雪に眠る北の街で、夢を見てほしい。素晴らしい友よ。君はいつまでもさ」という歌詞があり、「夢のカリフォルニア」の内容と合致する気がします。

そして、何度もあいつが歌っているのを聴いてた主人公ですが、歌詞が英語だから覚えていなかったと思われます。だから、「あいつ」で「それまでにきっとあいつの得意だった歌を覚えているから」という歌詞に結びつくわけです。

地平線の見える北の大地でもあいつは「夢のカリフォルニア」を口ずさんだでしょう。

冬山で遭難し、薄れゆく意識の中でもあいつは「夢のカリフォルニア」を口ずさんだはずです。

発表順は「夏この頃」「あいつ」「地平線の見える街」ですが、時系列的には「地平線の見える街」「あいつ」「夏この頃」という気がします。「あいつ」をめぐる三部作ですね。

正やんは意図してこの順番で創作したのでしょうか。それとも偶然の産物だったのでしょうか。いずれにしても伊勢正三の世界観をこの三部作は見事に表現しているとしか言いようがありません。


最後に、この「地平線の見える街」では、(あいつ)という三人称が使われているのは冒頭のみなんですよね。後は全て二人称の(君)。

正やん、凄い繊細な人称の使い分けです。

つまり、「地平線の見える街」の冒頭の(あいつ)は、客観的な立場で自分とあいつを見ていて、照れくさくて握手もできない自分を可笑しく思い、第三者的に表現したのでしょう。あるいは他にも見送りの人達がいて、その人達に囲まれた(あいつ)を主人公は一歩引いたところから見ている状況かもしれません。だから(あいつ)という表現になったかもしれません。

同時に「あいつ」や「夏この頃」とのつながりを持たせる意味もあると思います。「地平線の見える街」が「あいつ」の前日譚であるという正やんなりの配慮だったのかもしれません。というのも「汽車はもう出ようとしてるのに 君と握手のひとつもできない」でも全く問題ないと思いますしね。

で、それ以降は自分と相対する親友ということで(君)という二人称。

「あいつ」と「夏この頃」では、もう会えないので三人称の(あいつ)なんですね。

正やんの詩が心に響くのは、こういう言葉遣いの繊細さからもきているのですね。

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