night work 第0話

【あらすじ】

 夜勤業務。それは大多数の人間が深い眠りについてる間に始まる夜のお仕事。溝間千晴(みぞまちはる)は今年で30歳になる京都に支店を構えるホテルスタッフで、その日の深夜も後輩に深夜業務を教えながら、仕事場で一夜を明かすつもりだった。
 しかし彼が勤めるホテルのロビーに、僅かな光源を頼りに一人座る女子大生が千晴に雑談を持ちかける。注連野出萌(しめのいずも)と名乗る女子大生は美麗で、笑顔の愛らしい子だったが、千晴は違和感を覚えずにはいられなかった。
 なぜなら、千晴は出萌と出会った記憶がなかったのに、出萌の第一声は「こんばんは、溝間千晴さん」だったから。

 ホテルの仕事と聞いて、一般の人が思い描く仕事内容はどんなものだろう。
 もしかすると綺麗なスーツに身を包み「華やかで」「フロントに立つ」だけの楽そうな仕事だという感想ではないだろうか。立っているだけ、話しているだけ、フロントの様子を窺う程度の移動。確かにそのどれもが当てはまる。立っている時間の方が長いし、チェックインの手続きを含めば、お客さんと話す時間はそれなりだ。フロント周りの様子も見なければならないが毎分というわけじゃない。数時間に1回程度で、何度もフロントを見て回るわけじゃない。知らない人がホテルのスタッフを見れば『楽そうな仕事だな』と感じるのも無理はない。実際楽そうだと感じてホテル業界を目指す人間も少なくない。
 だがこの場を借りて言わせてほしい。ホテルを楽だと思っている人たちは「ホテルを利用する立場」でしかホテルスタッフを見たことがないのだということ。そしてホテル業というのは決して『楽な仕事』ではないということを。

「……ただいま」
「お疲れ様です、みぞま先輩。どうでした506号室」
「激おこぷんぷん丸カムチャッカインフェルノだった」
「先輩。それかなり古いですよ」
「……とりあえず部屋に出たGは排除したけど、Gが出たような部屋にはいられないって」

 俺こと溝間千晴はホテルから支給されている紺のスーツの上着を脱ぎ、事務所に置かれているキャスター付きの回転式椅子の背に上着をかけて座り込む。
 俺が勤めているグッドステイホテル京都は100室を保有するビジネスと観光を目的とした客層向けのホテルだ。基本となる部屋の広さは15平米でユニットバスタイプのバスタブは大の大人でも足を十分に広げられるほど広く作られている。テレビ、加湿空気清浄機、インターネット環境も完備されているので、自宅にいるような居心地の良さで疲れを癒すのにも最適となっている。
 ただ最近改装工事を行ったばかりだったので、普段いじらない部屋のあれこれを触ったために普段は隠れていたGが這い出て来たようなのだ。害虫予防のための薬品も業者を通じて購入、対策したはずなのだが生き残りがいたようだ。
 ちなみにお客は俺の言った500倍はキレていた。確かに予約した部屋にGが出れば怒るのも無理はないが、掃除したのも建物の管理も俺が全責任を負ってるわけじゃない。あくまで俺は夜勤業務としての一時的責任者でしかないのだから、いくら怒ろうが俺ができることなど謝罪くらいしかないのだ。返金の話も上がりそうになったが、なんとかお客の怒りを抑えながら、部屋のグレードを上げることを約束した上でのルームチェンジで手を打ってもらった。
 ぷんぷん丸とか言ってはみたが、事の重大さは後輩にも伝わったようで、後輩は真剣な表情で次の手を予測する。

「となるとルームチェンジっすね。あ、でも今日の空き部屋」
「ああ、今日はもう空いてる部屋は1室しかない。俺たちが仮眠部屋で使うはずの部屋しかな」
「ええ! じゃあ今日は仮眠部屋ナシっすか!」
「残念ながらそうなる」

 後輩のあからさまな落胆に、俺も落胆しそうになるが問題はまだ解決していない。パソコン上でのルームチェンジ操作は後輩に任せるとして、俺はこれからルームチェンジのための使われていない予備の部屋のリメイク、つまり軽清掃と人数分のアメニティの準備、その後にGの出た部屋にもう一度出向いてお客の荷物を運びながら、新たな部屋の案内もせねばならない。その間の話し相手も込みでだ。
 相当キレてたから最高速度で部屋のリメイクをしなければ二次爆発を起こしかねない。

「とりあえずパソコン上のルームチェンジ操作頼むわ。カードキー作成はこっちでやっとくから」
「……すみません先輩。俺が電話取ったのに」
「夜勤やり始めてまだ間もないだろう? こういうのは先輩にまかせときゃいいんだよ」

 とはいえ、ここからが勝負だ。俺は手早く新たな部屋のルームキーを造り、事務所にあるアメニティを片っ端から掴み取っていく。多めに取っていったのはせめてもの謝罪の証を形にするためである。ただのルームチェンジだけでは「これで終わりか?」と足元を見られる可能性も捨てきれない。よって高価なアメニティの準備も欠かさない。

「じゃあちょっと行ってくるけど、その間のフロントは頼んだぞ」
「……みぞま先輩、あの、お金の閉めは?」
「そんな情けない顔しなくとも一緒にやるって。なんかあったらとりあえずお客には待ってもらってくれ」

 後輩に言い残して俺は事務所を出ていく。
 時間は0時ちょうど。ホテル業界の夜勤業務はこのあたりで始まり出す。立った二人だけで100人以上のお客の安全と睡眠と雑務をこなすための業務が。
 

 ◆◆◆ 

 意外と知られていないのだが、ホテル業の仕事は日中だけではない。俺たち男性スタッフは特に夜にもやらなければならない夜勤業務がある。

 仕事内容は多岐に渡り例えばその日の売り上げを計上し、納金する業務。その後に本社に「これだけ売り上げました」という報告をメールやファックスで送信する。その後にパソコン上でも売り上げの閉め作業をしながら、閉めが終われば売り上げに関する全てのデータを整理整頓する。そこから「どんなプランがどの程度売れたのか」細分化する業務が発生する。

 パソコンから抽出されたデータは大まかな情報しか掲載されないことが多く、支店があるホテルなら支店ならではの特色をより深堀するため、大量のデータから宿泊客数、年齢別、性別と割り振っていかなくてはならない。単純に数字を打ち込んでその日の売り上げを計算するだけの作業もあるし、売上報告を作成するだけでも最低でも30分くらいかかる。

 そこから明日に向けた準備が始まる。ネットでも予約を受け付けているホテルなら翌日の料金レート管理も夜勤の業務に入って来る。適正レートで売らなければその日の売り上げに大きく左右され新人の頃、ミスって平日にも関わらず1室1万円くらいで販売していた時は上司から大目玉を食らった。その他にもホテルに寄せられるメールのチェック、クーポンやポイントを利用したお客の情報をさらって経理に報告するための資料作成、そして深夜になっても内線電話を鳴らすお客様の対応と、細かなものまで上げればきりがないほどの業務が夜勤には存在する。

 だが一般の人たちがその事実を知ることはなかなかない。理由は簡単で俺たちが泥臭い仕事をしている間、宿泊客の多くが夢の中にいるからだ。しかも俺たちの夜勤業務のほとんどは事務所内で行われるため、深夜になっても仕事をしているなどそれこそ夢にも思わない。たまに夕方にチェックインを受けたお客が翌朝のチェックアウトも担当すると「え、あれから眠られてないんですか?」と心配されることはあるが、例え1時間や2時間の仮眠程度の睡眠しか取っていないとしても、そこは笑顔で「いえ、しっかり休ませてもらっているので」と答える。とはいえ、心配してくれるお客なんてごくわずかだけど。

「……ねむ」

 一人事務所で伸びをする俺は、ある程度終わりが見えた夜勤業務に安心を覚えながら天井を見上げる。ルームチェンジのお客は俺の高速対応でなんとか怒りを抑え込んでもらい、その後も高級アメニティによる謝罪で鎮静化に至った。とはいえクレームはクレームだ。明朝やって来る副支配人には連絡しなければならない。残業は確定だろう。

 時刻は深夜2時。後輩には先んじて休憩に入ってもらい仮眠を取ってもらっている。仮眠室はお客が使用を諦めたGの出た部屋。本来ならそのままにして明日まで利用しないのが正しいのだが、夜勤業務を始めて間もない後輩の疲れを少しでも取ってもらうため、今回だけお客が使用した部屋を仮眠部屋として使わせてもらった。後輩は「Gは先輩が撃退したんですよね? なら問題なく使えます!」と簡易的なリメイクも快く引き受ける形で部屋へと向かった。

「交代まであと1時間。長いな……」

 後輩のために残している仕事はそのままにして、あと俺がやるべき仕事はフロント周りの清掃だけ。とはいえやることと言えば、お客が使用したフロント周りの備品やロビーの椅子、テーブルの直し、拭き掃除が主だ。アメニティの補充やコーヒーメーカーの清掃も含まれているが後輩にやってもらわないといつまで経っても覚えないので、今日はスルーするつもりだ。

「忘れないうちに、やっておくか」

 携帯ゲームへの誘惑が出始め、さすがにやり始めると集中して掃除を忘れる懸念が出たので上着を着直してフロントに出た。フロント周りは節電のためほとんどの照明は消えているが、共有スペースに置かれている椅子やテーブル付近の照明は僅かに明かりを残している。それでも淡い光しか光源はないので、基本的には深夜になればフロントにスタッフ以外の人間などいることはない。
 だからこそ、深夜2時を回っている時間帯に、共有スペースの椅子に腰をかける宿泊者がいることに内心驚いた。

 見た目の年齢は20代前半だろうか。淡い光の下でもよくわかる肌つやと均整の取れた顔つき。身なりは各部屋にセットされている紺色の浴衣姿だが、コマーシャルでも起用されそうなほどしっかりと着こなしている。流麗な黒髪はウェーブの状態で下ろされており、ただ座っているだけでも絵になっていた。

「こんばんは」

 綺麗さのあまり数秒見続けてしまった俺は、何か言われる前に挨拶をしておこうと声をかけると、彼女は俺の顔を見るや、笑顔でこう言った。

「こんばんは、溝間千晴さん」

 今度こそ、俺は驚きを顔に出してしまった。
 何故なら俺は彼女に自分のフルネームを紹介した覚えがないからだ。支給されているホテルスーツの胸元にはネームバッジが着用されているが、書かれているのは苗字だけ。しかも俺の苗字を一回見ただけで『みぞま』と呼べるかと言われれば怪しい。例え『みぞま』と読めたとしても下の名前まではわかりようがない。俺自身が口にしなければ。

「あの、お客様。本日お客様にご挨拶させていただきましたか?」
「いえ、今初めてしましたね」
「お気を害されることを承知でお聞きしますが、どこかでお会いしましたか?」
「ご存じないですか?」

 彼女のどこか試すような口ぶりに俺の緊張は高まる。下の名前まで知っているのなら、多かれ少なかれ会話も交わしている。だがどれだけ頭をひねっても目の前の可愛らしい女性に心当たりがない。俺が忘れているというなら最悪失礼だと怒られてしまうかもしれない。さすがに深夜のクレームは避けたい俺は必死になって記憶の底を掘り返す。

「えっと、その。ちょっと待ってください。いきなりだったもので、記憶が」
「どうぞどうぞ。お構いなく」

 笑みを浮かべながら俺の答えを待つ女性。その様は俺の慌てる様を楽しんでいるようにも見えた。本当に楽しんでいるなら人が悪い。
 数分と時間を費やしたがついに俺は目の前の女性のことを思い出せなかった。観念した俺は頭を下げながら「申し訳ございません」と謝罪する。

「誠に失礼ながら、お客様のお名前を思い出せませんでした」
「ふふ、でしょうね」

 微笑む彼女は、俺が思い出せなかったことに対して怒るどころか当然だとばかりに語りだす。

「何せ、私が一方的に覚えていただけですから」

 一方的に、という言葉に俺は信じられないという感情でいっぱいになった。20代前半の女性と知り合える機会など、ここ数年なかったはずだし、神に誓ってお客に手を出したことなどない。だが一切心当たりがないのに、目の前の女性は俺との接点をあると言い切る。しかも一方的に。

「申し遅れました。私、注連野出萌と言います。注連縄の『しめ』に野原の『の』。出萌は出雲大社の『いずも』なんですけど、『も』は萌えの方の『も』なんです」
「わざわざご丁寧に。私は溝間千晴と申します」
「ええ、知ってます」

 名乗りの後の会釈で俺も再び頭を下げる。直後俺はどこか懐かしさに似た既視感を覚えた。気のせいかとも思ったが、先ほどから笑みを浮かべる彼女と注連野という名前に気のせいで済ませてはいけない雰囲気を感じる。
 もしかするとこのまま話せば何か思い出せるかもしれない。仕事中なのであまり長く話せないが、手短にでも情報を仕入れて、思い出せる材料を見つけるため俺は会話を引き延ばす。

「その、注連野様は」
「様はいいですよ。確かに今の私はお客さんですけど、時間も時間ですし、こんな時間まで気を遣わなくても大丈夫です」
「ですが」

 少し悩んで、注連野さんは妙案とばかりに手を叩く。

「溝間さんは今お仕事中ですか?」
「はい、夜勤といっても聞き覚えがないかもしれませんが、翌朝まで起きて仕事をしなければなりません」

 不安そうにする注連野さんに俺はすかさず付け加える。

「といっても、仕事の半分は終わりましたし、残りの半分は今仮眠を取っている後輩にさせますがね。私がここに来たのもフロント周りの軽い清掃のためだけですから、そこまで忙しいかと問われれば忙しくはないですね」

 重大な仕事を背負っているわけではないことを理解し、注連野さんは少しだけ安堵する。

「では溝間さんが良ければ、私の話し相手になってくれませんか? どうにも落ち着かないと言いますか目が冴えちゃいまして」
「お部屋に何か不備がございましたらすぐに伺いますが?」
「いえ。お部屋に問題はありません。同室している人は数時間前から夢の中ですし、私はまた別の理由で寝付けないだけなので」

 別の、という言葉に引っかかったが、プライベートなことかもしれないと俺は口出しせず、注連野さんの話を聞き続ける。

「ご多忙なら無理は言いませんし、私も少ししたら部屋に戻ります。でももし今お暇で、私のことを思い出せなかったことに罪悪感を覚えているのなら、私の話し相手になってください」
「やっぱり思い出せなかったこと、怒ってます?」
「怒ってはないですよ。何度も言いますが、私が一方的に溝間さんのことを覚えていただけです」
「じゃあさっきの罪悪感というのは」
「こう言えば、溝間さんは私とお話してくれるかなと」

 本人はそう言っているが、やはり俺が彼女を覚えていなかったことに思うところがあるようだ。幸い仕事は後輩に残しても問題ないくらいの量しかないし、万が一怪しい勧誘ならすぐに切り上げればいい。何より俺自身が彼女との会話を望んでいる。俺とどこかで会っていて、しかも俺だけが忘れているという状況はあまりよろしくない。
 俺は彼女の対面になるよう「失礼します」と断りを入れて椅子に座り込む。

「お座りになるんですね」
「お客様がお座りになってリラックスされた状態でお話されるというのに、私が立ったまま話してしまうと気疲れされるでしょう。もちろん本来なら私の態度は見直されるべきですが、今は深夜。多少のことは目をつむってくれる、でしょう?」
「でしたら、その口調も砕けていただいていいですか? かしこまられると落ち着かないです」
「いえ、さすがに口調までは」
「お客様のご要望でも、ですか?」

 自分たちの立場は崩さないが、自分たちの間の境界は緩めろというなんとも難しい要求を出す注連野さんは、俺の溜め息を見ながらも自分の願いが聞き届かれることになんの疑問も持っていないように見えた。

「……他のお客様には内密に頼みますよ」
「もちろん。でもまだ砕け切ってないように聞こえますが」
「はいはい、わかりました。これでどうですか、注連野さん?」
「いいですね、少し投げやりに聞こえながらも、後輩を気遣う先輩みたいな感じ。とってもいいです」
「あんまり大人をからかうと痛い目を見ますからね。見た感じ20歳ちょうどか20歳超えててもそんなに時間経ってないでしょう?」
「鋭い着眼点ですね。もう少しで22になります」

 大学をストレートで入学したなら4回生になる計算だ。最終学年となれば就職活動が本格化しているはずだ。

「今回は旅行? それとも就活のための宿泊かな?」
「さすがホテルのスタッフさん。私の年齢だけでそこまで絞れるんですね」
「旅行のプランとか集客も俺たちの仕事なんでね。就活生、受験生のプランも作ったりするんだ。注連野さんの年齢を聞いて京都に来たなら旅行か就活のための宿泊かなって。で、答えは?」
「前者ですね。就活は無事に終わって、今は彼氏と一緒に京都観光中です」

 さすがに就活を無視して旅行を楽しんでいるというのではなかったようだ。それに彼氏と一緒に京都観光とは羨ましい限りである。10近く年の離れたおっさんでも可愛いと思える子なのだ。同年代が放っておくわけがない。
 俺は就職活動成功を話の中心にしながら手を叩いて喜んだ。

「おめでとう、希望する就職先は選べたの?」
「……ええ、まあ」

 どこか歯切れの悪い返答だった。先ほどまでの笑みとは違ったどこか苦みを感じる無理矢理な笑顔だ。

「その様子じゃ、希望の就職先ってわけじゃないのかな?」
「そんなことありません。ちゃんと自分で勤めたい会社を受けて、内定をもらいました」
「ならもっと喜べばいいじゃないか。注連野さんのその様子じゃ、希望した会社じゃなかったみたいに見える」
「そう、見えますか」
「俺でもわかるんだ。親御さんとか彼氏さんはわかってるんじゃないか?」
「少なくとも、その二つは知らないです。だってその二つは私のことを良い意味でも悪い意味でも信じきっていますから」

 とつとつと注連野さんはこれまでのことを話し出した。就職活動のこと、大学でのこと、そして彼氏君のことを。

「私、高校生の頃からチアリーディング部に入ってまして、大学に入っても同じチアで頑張ってたんです。頑張ってる人を応援するのが好きで、自分の応援で力が出るって言ってもらえるのがすごく嬉しくて。特に運動部の応援をする時が一番気合入るんです。今の彼氏は応援した部活の一つで、ラグビー部の部員だったんです。エースだったこともあってそれなりに活躍しててかっこいいんですよ」
「……のろけ?」
「のろけとか言わないでください」

 ツッコミ待ちかと思ったので、容赦なくツッコんだが違ったらしい。

「両親もそんな私を見て、人を応援する仕事に就くんだろうって思ってたみたいなんですよね」
「違うの?」
「応援するのは好きなんですけど、私、応援したい相手と同じくらい自分も楽しみたいんです」

 ロビーから見える庭園に視線を送って、注連野さんはこれまで溜めていたであろう本音を吐き出していく。

「応援って、励ましたい相手のことを思って声をかけるじゃないですか。でも私、声をかけている自分もひっくるめてその場の雰囲気を楽しみたいんです。それがチアだったんですけど、それを仕事にするってなると何になるんだろうってずっと考えてたんです。特に三回生の後半から」

 難しい問いだ。彼女はチアを通して就職活動をし始め、チアに近い仕事をしたいと考えた。だが世の中の仕事にチアに「近い」仕事など山のようにある。誰かの応援、ないしは手伝いをする仕事など考えようでは全てに当てはまる。何せ仕事とは回り回って「誰かのためにはなっている」からだ。

「私の学部は経営学部だったんですけど、驚きました。というか絶望したって言った方が正しいですね。見る職業どれもこれもが誰かの、他社の応援や手伝いになりえるんですから」
「経営学部か。となると無難に金融とか保険業界、あとはIT業界に卸売業界か。人のお金の管理とか人が作ったものを海外に売ったり買ったりする仲介的な仕事になるね。確かに考えようによっては全部誰かの応援、手伝いになりえる仕事ばかりだ」

 大企業、中小企業と分けていけばそれこそきりがなくなっていく。しかも決められた日程と期日が設けられる就活期間中に、自分の一生に見合った職を見つけるなど無茶苦茶な話だ。

「教授にも溝間さんのおっしゃられた通りの金融とか卸売業を勧められたんですけど私、そっちの方面に全く興味なかったんです」
「それは、また」
「金融系は避けたんですけど、卸売業はまだ興味があったので3月の卸売関係の就職説明会で一応志望書だけ出して、一次の筆記試験だけ受けたんです。そしたらあれよあれよと面接試験にまで通貨できて、4月の最後には内定をもらったんです」
「それは、また、なんというか」
「いとーちゅう商事って知ってます? あそこの内定をもらったんです」

 彼女が口にした会社名は日本国内でも五本の指に入る総合商社である。年収は何10億と言われており、名前だけならとんでもなく有名な会社だ。

「注連野さん、めっちゃ有能なんだね」
「茶化さないでくださいよ」

 本心からの賞賛だったのだが、これも違った応対だったようだ。

「しかも私、特に何も調べずに内定をもらってしまって、まさか初年度から海外で仕事するなんて思ってなくて、何も考えずに就活してた自分を恨みました」
「海外に行くのは嫌?」
「何年も海外で生活しないといけない、と言われれば気が引けません?」
「俺は、どうかな。幸い大学は外国語学科を先行してたから、最低限の英語はなんとかなるかも。会社に入ってちゃんと知識をくれるなら海外も悪くないかなって思ってる。羽振りもかなり良いって聞くし」
「すごいですね、私は一日だって耐えられなさそうです」

 注連野さんの悩みは大体わかった。要するに彼女は、希望していなかった有力会社に内定が決まり、興味はないもののネームバリューをそのまま捨ててしまうのはどうなのかというところで苦悩しているのだ。就活生によくある悩みといったところか。俺から言わせれば幸せな悩みだが。

「ほかに気になる会社はないの?」
「家族も彼氏も内定が決まった会社に行くことで納得しきってるんで、私から内定を蹴ったなんて言ったら落ち込みそうで。これまでたくさん手助けしてくれた、特に家族は」

 注連野さんは今まで応援してくれた家族と彼氏君を落ち込ませたくないから、彼らの願いを中心に据えてこれから先のを選択しようとしているのだ。
 そんな彼女の選択に、俺は深く溜め息を吐いた。

「ちょっと。なんで溜め息なんですか?」
「ずいぶん、勘違いで、ぜいたくな悩みで悩んでるなって」
「勘違いで、ぜいたく?」
「まず注連野さん、君の悩みは当然だ。だって君は行きたくもない会社に行こうとしているんだから。そりゃ悩むさ」

 行きたくないのなら行かなきゃいい。他人ならいくらでも言える簡単なアドバイスだ。だが俺はそのアドバイスだけは言わないように気を付ける。

「希望する会社に内定をもらった、とさっきは聞いたけどそれは君の周りの人たちが希望する会社だった。君が選んだわけじゃなく君以外の誰かの希望する」
「……だから今の内定を蹴って、別の会社を受け直せと?」
「俺からはそんなこと言えないよ。だって君が内定をもらった会社は君が思っている以上に有力な会社だ。上手くやれば君は初年度でも給料30万くらいはもらえるんじゃないか」
「さ、さんじゅう!?」
「手取りかどうかはわからないけどね。それでも25万は固い」

 大学生でも20万を超える給料は魅力的だろう。注連野さんも具体的な金額を提示されて少しだけ背をそらす。

「けど注連野さんの言った通り、総合商社はとにかく海外出張が多い。日本にいる時間よりも海外にいる時間の方が長いと聞くし、別の土地での暮らしが我慢ならないのならきついのはきついね」

 徐々に暗い表情を浮かべる注連野さんに「でもね」と俺は続ける。

「君もさっき言っただろう。調べてないって。じゃあ今からでもいい。調べ直せばいいんだ」
「調べ、直す」
「わからないのならわかるまで。今の時代、ネットを使えばなんでもわかる時代だ。情報はそこかしこに転がってる。もちろんネットに書いてる内容なんて良いことばっかりの方が圧倒的に多いけど、それでもとっかかりはできる。何も知らないまま会社に入るよりは幾分かましだ。ネット調べられないなら卸売業を就職した先輩とかに話を聞けばいいしね。その辺の繋がりは教授さんとか持ってるんじゃないかな?」
「それで、もし、やっぱり嫌だってなったら、溝間さんならどうしますか?」
「俺なら内定蹴るよ」

 あっさりと俺は答えた。

「だって調べて、調べ尽くして、頭が痛くなるまで調べまくって、それでも俺がやりたくない仕事が入ってるなら行かないよ。いくらそこが有力会社でもね」
「みんなから、家族から反対されたら?」
「勘違いしないで聞いてほしいんだけど、家族は『注連野さん自身』なのかな?」

 俺の返答に注連野さんは気づかされたかのように口を微かに空けたまま目を見開く。

「確かに家族の意見は大事だ。自分だけで考えてばかりじゃ周りが見えなくなることもある。身近な人間の声も聞いた方がいい時もある。でも最終的に決定するのは自分だ。他の誰でもない自分自身なんだよ」

 人生は一度きり。誰だって後悔のない生き方を選び取りたい。だが毎回成功ばかりを引き当てるほど人生は甘くない。むしろ失敗と後悔の連続だろう。俺だってそうなのだから。 

「俺の場合だけど、俺、最初はホテルじゃなくて俳優目指してたんだよね」
「は、はい?」
「わかってるよ! かっこよくもないし、ダンスも歌もからきしだったからね!」

 深夜のテンションで俺は言わなくてもいい自分の過去を注連野さんに話すことにした。自分で決め続けて失敗ばかりの人生を歩んできた俺の人生を。

「18歳を過ぎて5年くらいは都内で養成所に通いながらバイトして一人暮らしもしてた。朝から夕方まで歌やダンス、演技のレッスンをして夜はバイト三昧。あれこれやってはみたけど、養成所すら卒業できなかった落ちこぼれの俺は進級できずに退所したってわけ」
「バイトというのは、もしかして」
「そ、今のホテルの系列店舗。俺は当時、そこで夜勤専属のアルバイトをしてたんだ」

 養成所の退所が確定した時点で、その話をバイト先の上司にすると「接客業が嫌じゃなきゃ、都内で顔の利くホテルにお前を正社員として押してやる」という話が持ち上がり今に至る。接客が案外好きだった俺は、店舗を移動してもそれなりにホテルの仕事をこなすようになったのだ。

「俳優を目指したのも、今のホテルで働くようになったのも、全部俺が決めて選んだ結果だ。親にも了解は得てないし、俳優に関しては絶縁覚悟で実家を飛び出したからな。それでも両親は俺との縁を切らずにおいて、この年になっても仕送りとかくれるんだ。不甲斐ないばかりだよ」
「……おおよそ参考にならないアドバイスですね」
「当たり前だ。これは俺が選択した人生なんだから。注連野さんに合致するところなんてあるはずがない」

 でも、と俺は一番注連野さんに伝えたい言葉を口にする。

「もし最後の決定まで誰かに委ねたら、きっとその選択を誰かのせいにする。俺はそれだけは絶対にしたくなかったんだ」

 就職活動は自分の人生を自分の意思で決める一つだと俺は思っている。もちろんその前から決定することも数多くある。だが子どもである間は親がなんとかしてくれることの方が多い。お金であったり、家族個人が持つ伝手であったり、とにかく大人の力業で解決する方法だ。でもそれは決して『自分の意思』で決定したことではない。

「誰かのせいにして『自分の人生はこんなんじゃなかった』って言う人間は山ほどいる。でもそういう人間は人生の岐路に立った時、すぐに自分じゃなく誰かの意見にすがりやすい。すがれば自分で決めたことにはならないからね」
「厳しいですね、溝間さんは」
「その代わり、自分で決めた道って言うのはどこまでも信じられる。自分で決めたから退路はないし、責任も全部自分だ。失敗もあるだろうし、後悔もある。でも成功した時、必ずこう思える。こっちに選んでよかったって。成功には程遠いけど」

 俺は誰かに説教できるほど、大した人生歩んでないし、頭だって全く良くない。それでもこれまで歩いてきた人生そのものを否定することはしない。そんなことをすれば、それまで俺を支えてくれた人たちまで否定することになるから。

「注連野さんは、もう自分の人生を自分で決めていいところまでたどり着いたんだ。ご両親のことや、彼氏君のこともある。君の言いたいこともわかる
。でも君にはその全部をひっくり返して、自分のしたいを優先する権利がある」
「……絶対に、嫌われますね。そんなことすれば」
「誰かのために何かしたいって、注連野さん自身が決めた道を選んでも?」
「怖いんです、家族や好きな人たちの期待に応えられないのが。自分のやり方が間違ってるんじゃないかと思うと、どうしても」

 これも何かの縁だと俺は励ます意味も込めて『ここだけの話』を注連野さんに教える。

「話は変わるけど、注連野さん。うちのホテルの浴衣、どう?」

 唐突な話題転換に戸惑いながら、注連野さんは浴衣に触れながら感想を述べる。

「すごく良いですよ。着心地もデザインも。男女兼用なのに、女性でも気軽に着られて」
「その浴衣、実はうちと提携してくれている浴衣屋さんのオリジナルなんだ」

 ホテルオリジナルの浴衣は男女兼用でサイズはSMLと充実してて、色は紺で統一している代わりに多少の外出なら問題ないデザイン性も確立している。しかも丸洗いも可能。お客さんは京都で浴衣姿を堪能できて、俺たちスタッフは使った浴衣をそのまま清掃業者に任せて次の日には新品同然に次のお客さんに提供できる。浴衣屋さんも宿泊してくれたお客さんに、自分たちのデザインを無料で告知できるから店に足を運んでくれる確率が上がる。WINWINってやつなのだ。

「でもこの浴衣ができるまで滅茶苦茶時間と労力がかかったんだ」
「時間と労力、ですか」
「今もそうなんだけど、うちと提携してくれてる浴衣屋さんの店主は結構気難しい人でね。支配人がホテル専用の浴衣開発のために話を持ちかけに言った時は門前払い。二度目は玄関先で物投げられて、三回目はバケツいっぱいの水ぶっかけられたらしい」
「……嘘ですよね?」
「支配人っていえば、支店を預かるボスだ。要は各支店で一番偉い人なんだけど、そんな大の大人が頭のてっぺんから足の先までずぶぬれで帰って来たのを見た時は開いた口が塞がらなかったよ」

 大雨にでも遭って来たような姿で帰って来た支配人を出迎えた時はショックだった。当時は誰もがホテル専用浴衣の計画はとん挫すると思っていた。だが支配人はただ一人、浴衣屋の店主の説得を諦めていなかった。

「支配人が辞める前に聞いたんだ。なんでそこまでホテル専用の浴衣を作りたかったのか。貶されて、物を投げつけられて、水ぶっかけられてもなんでって」
「どう、言われたんですか?」
「お客様が喜んで着てくれるかもしれないだろうって。また来たいと思ってくれるなら、俺は何度でも水をかぶるさって」

 当時、俺はその話を聞いて感動すら覚えた。自分の『したい』と誰かの『ため』をここまで突き詰めて行動に起こせる人間はそうはいない。そして当時の支配人は数少ない頑固者でもあった。ホテル専用浴衣は交渉から2年の時間を費やして完成に至ったと聞く。デザインや機能性、一着当たりの金額などありとあらゆる内容で、前支配人は浴衣屋の店主と朝から夜まで喧嘩しながら完成につなげたそうだ。

「とにかくお客第一の人でね。。浴衣の件も何度も何度も浴衣屋の店主に死ぬほど頼み込んで半年経ったあたりで『根負けした』って浴衣屋の店主が折れたんだ。代わりに俺たちスタッフは二の次って考え方はあんまりだったけど、最後には『しょうがないな』に持っていくんだよ。不思議な人だった」
「尊敬、されてるんですね」
「まさか。頑固でわがままでよく怒る人だったから尊敬なんてとんでもない」

 苦笑いを浮かべる注連野さんに俺は腕を組んで鼻を鳴らす。

「他にもお客の滞在中は絶対に笑顔にして帰すっていうのが前支配人のモットーだったからね。そこも一切ぶれてなかった。ネットのお客様満足度は常に星4.5以上。とにかく利用客の助けになることに全力だった。そこはすごいって思ったよ」
「やっぱり尊敬してるじゃないですか」
「違うって。すごいだから。尊敬じゃないから」

 前支配人は古民家を改造したカフェを営んでいると風のうわさで聞いている。年は還暦を迎えているはずだが、今も京都のどこかで来る客全員を笑顔にする方法を考えているのだろう。

「話が長くなったね。早い話が注連野さんも自由にきままに、やりたいことを真剣にやってもいいんだ。その延長で君ができる限り後悔しない方法があるならそれを選べばいい」
「難しいことを言ってくれますね……」
「だから調べなさいって言ってるんだ。職種は違っても誰かの助けになる仕事なんて意外とどこにでも転がってる。俺は俳優になって、自分も誰かも勇気づけたり元気づけたりするのが夢だったけど、それは叶わなかった。その代わりに今のホテルでお客相手に旅の元気や思い出をよくする手伝いをしているって感じかな」
「溝間さんは、今のホテルで働くこと、楽しいですか?」
「偶然とはいえ、今のホテルに引き合わせてくれた先輩には感謝してるし、立場は違えど宿泊してくれた人たちに『元気と楽しい』をあげられて今は楽しいよ。自分で決めて選んだ道を進むことは怖いけど、怖いや痛いだけじゃ決してない。もしそればっかりだったら逃げればいいし」
「無責任ですね」
「自分の人生でもないのに、相手の人生語る奴の方が無責任だし信用ないだろ? 何を選び取るかはその人次第。後のことは自分で決めて行くだけなんだ。あとは自分が何をしたいか。こればっかりは個人個人で大きく違うから、そこは深く調べて形にしないといけない。それが今の注連野さんに必要なことじゃないかな」
「自分のしたいことを、調べる。深く形に……」

 説教臭くなったなと今更になって恥ずかしくなってくる。大学生の女の子に深夜の時間を使って話す話題でもないだろうに、結局俺だけで30分以上話していた気がする。

「良い時間だな。俺はこの辺でお暇するよ。そろそろ後輩が降りてきそうだし」
「そんな、私まだ溝間さんに聞きたいことあるのに」
「こんなおっさんの話、面白くもなんともないと思うけど」
「決めるのは自分、ですよね?」

 おっしゃる通りだった。俺は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべて「せめて掃除しながらでいい?」と提案した。
 そこからも俺の他愛ないこれまでの話を少しと、注連野さんも彼女自身のこれまでを話してくれた。実は彼氏君は見栄っ張りで、金欠なのに何かと注連野さんにおごるところがあるとか、大学のチア部は当初それほど仲のいいメンツではなかったこと、そして注連野さんがうちのホテルを利用したのはこれが初めてではなかったこと。どういった経緯でうちを利用したのかは聞けなかったが、注連野さんいわく「最初に利用した時もとてもお世話になりました」とだけ教えてくれた。相当誰かがいい接客をしたのだろう。その時の彼女の笑顔は話していた中で一番いい笑顔を浮かべていたから。

「私ばかり話してますね。溝間さんも聞くだけじゃなくて、何かお話してください」
「俺、先にいろいろ人生相談受けたけど? 相談の合間に俺自身のことも」
「じゃあ溝間さんの学生時代の話とか。このホテルに来る前の話なんかでもいいです」
「ぐいぐい来るな……」

 注連野さんに問い詰められるが学生時代といっても、俺は大学行ってないし高校のことなんてほとんど忘れてしまっている。10年以上前の記憶などほとんどのこってなどいない。

「では俳優を目指された頃のお話は?」
「そんなにいいもんでもないよ。演技の能力は全く成長しなかったし、夢ばっか追いかけていたから彼女にも愛想つかされるし」
「えっ!? 溝間さん、彼女さんいたんですか!?」
「へ、変っすか?」
「変ではありませんが、隅に置けないなとは思いました……」

 結局その後もなし崩し的に俺の俳優を目指していた頃の話を少しだけした。話の内容の半分くらいは俺の女性関係だったような気もするが深くは考えないようにした。

「お、後輩が帰って来たみたいだ」

 しばらくして1階ロビーにほど近い二基のエレベーターのうちの一基が稼働し、2階に移動する様子を確認しながら、俺は掃除用具を片付けながら事務所に戻る準備を進める。
「わかるんですか?」という注連野さんの質問に俺は「まあね」と答える。

「今の時間は深夜3時。ちょうど後輩が仮眠部屋から戻って来る時間なんだ。そしてこんな深夜にエレベーターを稼働させるのは、2階に仮眠部屋があって、今まさに事務所に戻ろうとしている後輩だけ。お客様の可能性もあるけど、どっちにしても注連野さんとのおしゃべりもここまでだ」

 さすがに他のお客がいる前では話し続けることができないと理解した注連野さんは、それでも不満そうに「仕方ないですね」と椅子から立ち上がる。

「注連野さんとお話できて楽しかったよ。ありがとう」
「それはこちらのセリフです。また会うことがあればお話ししてください」
「いやいや彼氏さんがいるんだからさすがに次回はないでしょ?」
「……ですね」

 最後に二人で笑い合って後輩が1階に到着する前に、もう一基のエレベーターで注連野さんは客室に戻って行った。多少の物足りなさを感じたが、すぐに勘違いだと割り切って俺も事務所に引っ込んだ。

 俺は後輩との交代を経て、仮眠中にも関わらず珍しく夢を見た。夜勤時の仮眠中に夢を見たことがなかった俺は珍しさも手伝って、夢で見た内容を鮮明に覚えていた。

 内容はこのホテルでの出来事。時期は冬。暖房器具や客室用の衣類も冬用だったことから推測したのだが、俺はというと上着を脱いで床に這いつくばる姿で何かを探していた。しかも俺の他にもう一人、高校生くらいの女の子も客室の隙間という隙間に顔を突っ込んでいた。
 俺もその女子高生も必死になって何かを探す様子に、雷に撃たれたかのように思い出した。
 あれは俺が20代後半で今の京都の支店に来て間もなかった頃。大学受験のために遠方からやって来た女子高生がチェックアウト直前になって内線電話で『受験票を失くした』というトラブルが発生したのだ。電話を取ったのが俺で、半泣きの彼女をなだめながら副支配人に許可をもらって、受験票捜索に力を貸したのだ。
 
『もう無理です、私このまま受験もできずに』
「これ以上情けないこというなら本当に探すの止めますよ」
 
 今にして思えば、年下とはいえ、お客にとんでもないことを言っていたなと反省しかない。時間にして10分強の捜索の結果、受験票は客室の机の中の雑誌の間に挟まっていたことがわかり発見に至った。しかし予定していた受験校までの電車の時刻を大幅にロス。どれだけ早くしても電車では受験会場に間に合わない状態に陥った。
 受験票を握りしめて悔しそうに涙を流す彼女を見て、夜勤明けの頭で疲労困憊の俺はこう口走った。
 
「大丈夫、絶対俺が君を受験会場まで届ける」
 
 この時ほど自分が車の免許を持っていて良かったと思ったことはない。口に出した言葉を現実にするため、俺は再び副支配人と交渉し、ホテルスタッフが使える社用車を借りて女子高生を受験会場である大学まで送ることにした。車中にいる間は予想される問題を口に出しては彼女が答えて緊張をほぐし続けた。
断言しよう、その日の俺の充実感を超えるような体験は未だにない。女子高生は受験開始時間十五分前に到着し、車を降りて振り返りながら俺にこう告げたから。
 
『ありがとう溝間さん! 私、絶対受かるから! 絶対今日のこと忘れないから!』
 
 以降、俺は彼女と会ったことはない。彼女が無事受験に合格し、臨んだキャンパスライフを送れたかはわからずじまいになったが、最後に見せてくれた勝ち気な笑顔なら万が一落ちていても、別のもっといい大学に入れただろう。
 酷く懐かしい記憶から目覚めると外はすでに明るくなっていて、事務所に戻る時間まで残り10分を切っていた。仮眠時間ぎりぎりまで睡眠を取るなどこの時が初めてだったので、焦りを抑えながら手早く身支度を整え、事務所に戻った際、後輩がすさまじいスピードで俺に詰め寄ってきた。

「悪い、結構ぎりぎりまで寝ちまって」
「先輩! 誰なんすか、あの女子大生!」
「……なんなんだよ一体」

 俺は謝罪した気持ちを今すぐに返してほしくなる内容だなと直感した。聞けば夜に話した注連野さんは俺が仮眠から帰って来るより前にチェックアウトしたらしい。しかも後輩に俺宛ての言伝として封筒を託して。

「手紙、しかも俺に?」
「めっちゃ可愛い子でしたよ! あんな子いつチェックインしたのかマジでわからなかったっす。お昼にチェックインしたなら、夕方から来た俺たちは会えなかったのもわかるけど、チェックイン担当したかったなぁ!」
「宿泊者のことあんまり調べたりするなよ。普通に違法だからな。それとあの子、彼氏さんいただろ?」
「なんでそんなこと知ってんすか!?」

 後輩の益体のない推理とわめきは放っておいて、俺は封筒の中身をさぐる。封筒そのものは客室全てに設置しているもので、宿泊者なら誰もが持って帰られる代物だ。封筒だけでなく、室内には筆記具と手紙も常備しているので、切手さえあれば誰でも手紙を送ることも可能だ。

「安全のため、中身は確認しときました」
「お客が書いた手紙を勝手に読むなよ。デリカシー皆無か」
「先輩宛てなら別にいいじゃないっすか! ああもう、いいな! 先輩! 絶対夜中にあの子と何か話したんでしょう!? じゃなきゃ彼氏さんがいるとか知らなかったでしょうし」
「お前夜勤明けのテンションでおかしくなってるって」
「おかしいのは先輩ですって!」

 手紙の内容は深夜に話を聞いてくれたことへの感謝。そして。

「また会いましょう、か」
「何があったんすか!? 僕が仮眠取ってる間に何があったんです? 教えてくださいよ!」
「さて、夜勤も残り三時間だ。俺、昨日のクレームについての報告書を書かないとだからフロント頼むわ」
「ああ! ずるい! 逃げる気だ!」
「じゃあ俺の代わりに報告書、書いてくれよ」
「お断りっす!」

 後輩は夜勤が終わる時間まで、注連野さんと何があったのか聞き出そうとしていたが報告書と引き換えにする度、それ以上俺から何かを聞き出そうとはしなかった。別に話しても良かったのだが、話した内容が彼女の人生に連なるものとなっては、俺の一存で彼女の秘密に近い内容を話す気にはなれなかった。
 後輩には独占欲を疑われたが、とんでもない。俺だってあの夜に話した内容でしか彼女を知らないのだ。間違っても色恋沙汰ではない。手紙のこともただ社交辞令。たまたま自分のことを話せる年上のおっさんがいただけのこと。何より彼氏さんもいるのだ。百歩譲って何かあっても大損するのは俺。そんな分の悪い賭けを俺がするわけがない。
 驕りも自惚れもなく、俺はその日の報告書を纏め上げて副支配人と日勤の到着を待ったのだった。

◆◆◆

「本日より、こちらのホテルに配属になりました」

 あの夜勤の出来事から数か月後。
 月並みで使い古された思い上がりも甚だしい言葉で表すなら、俺はその日、運命の巡り合わせに驚きを隠せないでいた。

「右も左もわからない新人ですが、一生懸命がんばります」

 2021年4月初旬。新入社員がそれぞれの会社で入社式を迎える時期。俺のホテルでも本社で入社式を終えた新人たちが各支店へと配属になったところだった。最後の新入社員の決意表明を聞き、俺を含めた既存スタッフが拍手で返す。俺がいる京都支店も本日から配属の新人たちと既存の社員たちの初顔合わせとなった。初々しい大卒上がりの子たちもいれば、すでに社会に出て垢抜けた既卒者たちの顔ぶれも窺える。

「今年、うちのホテル全体としては30人の新入社員が加入してくれた。そのうち5人はこの京都の支店に配属になった」

 副支配人のはきはきとした声が事務所内に響く。今年も新人たちの人員補充を内心喜んでおり、1か月前に一緒に飲みに行った時も「良かったよりも安心の方が大きい」と零していた。

「既存の社員の何人かには、事前に通達のあった新入社員についてもらって日勤から夜勤までのやり方を教えてやってくれ」

 例の女子大生との出会いから半年は過ぎていた。俺の記憶の中から彼女に関する情報は完全に抜け落ちていたはずだった。しかし数か月前に通達のあった名前には一人だけ聞き覚えのある、見覚えのある名が記されていた。その名を見て知って、俺の記憶の底に埋まっていた彼女の微笑む表情が思い出され、今日まで「何かの間違いだ」と自分に言い聞かせていた。

「じゃあ今日からよろしく頼むぞ」

 新入社員たちがそれぞれの担当社員のもとへ移動する。俺を含めた既存スタッフたちは温かな笑みで新入社員たちを迎え入れる。
 だが俺だけは、深いため息を吐かざるを得なかった。

「というわけで、これから末永くよろしくお願いしますね、溝間先輩」
「間違っても、そんな言い方はよしてくれ、注連野さん」

 冗談めかして笑う彼女は紛れもなく、あの夜、あのフロントで話し合った彼女、注連野出萌だった。

「ちょっと話がある。こっち来て」
「いきなりですね。そういうことするのは別のホテルなんじゃ」
「心臓に悪い冗談は止めてもらうか!!」

 注連野さんを引き連れ、事務所を出る。俺たちはホテルスタッフしか使えない1階喫煙所に移動した。

「これはどういうことなんだ。君は確か」
「いとーちゅうに行ったはず、ですか?」

 注連野さんの言う通り、彼女はあの夜、俺に自身の人生の岐路をどうするべきかを問うた。彼女の選択はそのどれもが尊く、どれもが正しい。あとは自身で一番後悔の少ない選択をするだけだと俺は伝えたはずだ。
 なのに何故彼女が俺と同じホテル業界に来ることになる。

「溝間さんにアドバイスをもらった後、私なりに一生懸命考えて考え抜きました。それこそ頭が痛くなるくらいに」

 目を閉じ、深呼吸を一つして注連野さんは再び目を見開く。

「考えた末に私、一番大事にしてたことを忘れてたんです」
「大事にしていたこと?」
「私が一番されて嬉しかったことを、誰かのために返す。チアもその延長にあったことをすっかり忘れていたんです。でも思い出せた後はすぐに決意できました。そしてそれを仕事に活かせたら、どんなことがあっても続けられるんじゃないかって」
「それが、ホテルなのか?」
「溝間さんにはわからなくて大丈夫です。私の中での結論、というか決心はついたので」

 何を言っても注連野さんはうちのホテルに入社し、うちの京都支店に配属されてしまったので、これ以上俺が何を言っても仕方がないのだが、彼女がここにやってくるきっかけになったのが俺だとするなら、その理由を聞きたかった。前向きなものなら良いのだが、万が一にも楽そうだからといった短絡的なものなら早いうちに教えることがたくさんあるからだ。

「脅すわけじゃないけど、ホテル業務は数か月前に君と話していたような簡単な仕事ばかりじゃない。面倒なお客の対応や、施設内トラブル、外部業者との連携と上げればきりがない。繁忙期は死ぬほど大変だし何より」
「京都は春先の桜の時期、秋の紅葉が一番大変、ですよね?」
「……ネットの情報?」
「知識だけはたくさんし入れました。あとは実践だけなのでどうかよろしくお願いします」

 どうやら本当にいろいろ調べて来た後のようだ。ならこれ以上は何も言うまい。

「本来なら同性同士で教え合うところなんだけど、何故か俺は君を教えることになった。顔見知りとはいえ、俺は一切の甘えは許さないからそのつもりで」
「ビシバシしごいてください」
「それ、俺のセリフだと思うんだけど……」

 軽く咳払いをして、俺は右手を差し出す。

「じゃあ改めて、今日からよろしく注連野さん」
「はい、溝間先輩」

 勝ち気な笑みを浮かべながら、注連野さんは俺の手を握り返す。
 この年の京都の桜は例年よりも長く奇麗に咲き誇っていた。京都の山々を桃色に染め、多くの観光客を出迎えるとともに、まるでこの年の新入社員たちを温かく迎えるように、桃色の花弁は雨にも風にも負けず花開き続けた。
 それは来年も強く咲き誇る前触れのようにも思えた。

◆◆◆

「そういえば、彼氏君は俺が注連野さんの先輩するってこと知ってるの?」
「なんでそんなこと気にされるんですか?」
「いや、同じ職場だったとしても異性が先輩になるのって彼氏として面白く思わないんじゃないかって」
「なるほど。そういうことでしたらご心配なく。私と彼はもう付き合ってないので」
「……え?」
「詳細は省きますけど、去年の11月に別れたので」
「え!? ウソ!?」
「理由は彼の二股です。あろうことかあの男、私と同じ学部の一つ下の後輩とも交際関係にあったんですよ? バレたのはその後輩が彼の携帯をチェックした時で、去年の10月頃から他の女の影があると後輩は怪しんでたそうです。彼のいない間に携帯だけを調べられるタイミングがあったので、中身を見たら私とSNSのやり取りをしてる部分があったので問い詰めたら」
「なんてこった……」
「バレた後は私と後輩に土下座の嵐で、泣きながら謝り続けてました。今思い出しても情けない姿でした」
「二股、ダメ絶対……」
「私はあとを引きづりたくなかったので、しっかり平手でお断りして、後輩も一発お腹に入れて関係は解消したので今の私はフリーです」
「なんかごめん。嫌なこと思い出させたね」
「いえいえ。なので何をされても誰も何も言わないのでご心配なく」
「何もしませんけど!?」

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