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イスタンブールの鯖

流し見していたテレビにイスタンブールの街並みが映し出されて、あぁこの路は歩いたことがあるなと、記憶が蘇る午後である。

20年前くらいまでは、よく海外に出ていた。

よくといっても、2年に一度か二度、行き先もヨーロッパとアジアだけだったが、いま頭の中で数えてみたら、行ったことがあるのがちょうど15カ国ある。
おおむね連れ合いと2人での旅行で、そのころはまだ体力と多少の財力があったのだ。

さて、旅するにあたって人がそこに何を求めるのか、どんな目的で出かけるのかは千差万別だろう。

自分は純粋な異文化体験というか、観光地などよりは、ただの何でもない街での散策などに、大いに憧れる気持ちがあった。
いわゆる時刻表のない旅というやつで、実際自分一人で行った最初の海外旅行では、パリの街を無闇やたらに歩き回ったりもしたものだ。
しかし、これは夫婦での旅行ではどうしても無理がある。
人にはそれぞれのペースと、興味関心というものがあるわけで、目的もなく歩いて、自分の心に引っかかったものだけを見て回るというのは、贅沢だがやはり一人でするべきことなのだ。

リゾートだの大自然などには興味がない。
現地でうまい食堂にあたれば大変にうれしいが、だからといって、それも目的にはならない。
イベントだのお祭りの類にも、わざわざ出かけていくほどの情熱はない。
ではわたしは何を求めて行ったのかといえば、端的に言って美術館と建築の探訪であった。

そう、なんといってもわたしは美術系の人なので、眼を楽しませるもの、「眼福」を得ることには貪欲なのだ。

というわけでどこの国に行っても、ナショナルミュージアムはもちろんのこと、見るべき美術館にはだいたい足を運んだし、城だの教会だの寺院だの、精力的に訪れた。

当時は一日で美術館4ヶ所はしご、なんて無茶なことも、わりと普通にやっていたが、今なら気力体力的にちょっと無理だろう。

ところでイスタンブールだ。

この街は物理的に昔からの建物が残っていて、そこに現代人が折り合いをつけながら生活している。
街がそのまま美術館といってもいい環境なので、わざわざあちらの建物、こちらの美術館と出かけて行かなくとも、ただぶらぶら歩くだけで、眼福のオンパレードなのである。

ヨーロッパの都市は石造りで、地震も少ない。
だから、フィレンツェやプラハのように、街ごと昔の姿が残っている場所も少なくない。

ただ、イスタンブールには古代ローマから始まって、キリスト教文化もイスラム教文化も同時に存在している点が稀有である。
そこに生活している世俗主義のトルコ人たちも、そういう歴史を尊重しているところがとても好ましかった。

そんなわけでこの街は、わたしにとっていくつかある、もう一度訪れたい場所の一つなのである。

テレビで映っていた坂道をトラムで上がっていくと、その先に軍事博物館の建物があって、ここではトルコ軍楽隊の伝統的な演奏で「ジェッディン・デデン(祖父も父も)」を聞くことができた。
我々の年代にはなつかしい向田邦子作のドラマ「阿修羅のごとく」の主題曲である。
そんなことも思い出した。

そうそう、わたしが訪問した夏には、鯖焼きとトウモロコシの屋台がイスタンブール中に出現して、実に香ばしい煙が立つ。
日本人としては醤油が欲しくなるのだが、そこはさすがに違っていて、鯖はレモンをかけてパンに挟んで食べるのであるが。


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