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エクレシア意識の覚醒


聖書の提示する「教会」は、家々で集い、パンを裂き、イエス・キリストを記念していました。

それがローマ帝国の公認化、その後の国教化により、変質しました。

ローマ風の特定の建物で集い、聖職者がローマ宮廷文化に倣った礼拝儀式を行う、宗教になりました。


「聖書的な教会を」という声は、いつでも聞かれる言葉です。

では、実際にどこから変えるべきでしょう?

クリスチャンひとりひとりの意識です。


ボクシがいることが前提。

「キリスト教の会」があることが前提。

それがこれまでの「キリスト教」です。

ボクシや「キリスト教の会」を通して、イエス・キリストを礼拝するのが、キリスト教。


でも、聖書はこう提示します。

@Ⅰテモテ2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。


@エレミヤ31:34
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。


@Ⅰヨハネ 2:20
しかし、あなたがたの中には、あなたがたが自ら彼から受けた塗油が留まっており、誰にもあなた方を教える必要はない。かえって彼からの塗油がすべてのことについてあなたがたに教えるのである。



そして、ボクシは、主にある兄弟のひとり。兄弟であって「先生」ではありません。


@マタイ 23:8
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。


クリスチャンひとりひとりが、イエス・キリストとの個人的関係を持つこと。

クリスチャンひとりひとりが、聖書理解を持つこと。

それが聖書的な「教会」の実現への一歩ではないでしょうか。


*「教会」は、場所や建物ではありません。
誤誘導する日本語訳にはご注意ください。


僕は、リバイバル、という言葉は好みません。

僕には、消費期限の切れた、手垢にまみれた、宗教臭い言葉に聞こえます。

でも、もしそれがあるとすれば。

それは、クリスチャンひとりひとりの意識が変わること、でしょう。

それは大いに期待します。




人は、創造主ヤハウェ・エロヒムの「形」と「様」に、創造された存在。


イエス・キリストの十字架死の内にある「共なる死」。
それを経て「復活」したことについて。



「新創造」について。



「ひとつ」とされて「いのち」を共有する「エクレシア」について。


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