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「独立基督者」

共同体としての在り方、キリストの弟子としての在り方について。

①不可視的エクレシア

@エペソ1:23【岩波訳】
この教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。

*参考記事
不可視的エクレシアの定義とされるにエペソ人への手紙1:23の訳文比較。


日本語訳の聖書では、エペソ1:23に「ところ」や「場」という言葉を加えており、宗教団体や建物を印象着けるように、意訳されている。


②可視的「エクレシア」

@Ⅰコリント1:2【協共訳】
コリントにある神の教会と、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち、ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主です。

可視的なエクレシアは、キリストを呼び求める人々。
建物や宗教団体ではない。

日本語では「教会」とされているが、「教える会」や「教えの会」ではなく、漢字の意味的には不適当。

漢字の意味を考えると「召衆」が適当。

聖書の提示する可視的「エクレシア」は、都市、街、地域の区分。
複数の長老、複数の執事、によって運営される。

@使徒13:1【協共訳】
使徒 13:1 さて、アンティオキアでは、そこの教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデの幼なじみマナエン、サウロなど、預言者や教師たちがいた。
*預言者たち、教師たち、という複数形で記述されている


牧師が信徒を教会籍制度で囲い込み、献金という集金をし、奉仕という無償労働をさせ、建物を建築して団体組織を維持するようなものではない。

現代では、分裂を繰り返し、プロテスタント諸派においては非、常に小規模になっており、それぞれがボクシを擁立しており、士師記の記述を想起させる。

@士師記【協共訳】7:9ー12
ミカが若者に、「あなたはどこから来たのですか」と尋ねると、彼は、「私はレビ人で、ユダのベツレヘムから来ました。各地を転々としながら旅する者です」と答えた。
ミカは若者に言った。「私と一緒に住んで、私のために父となり、祭司となってください。毎年、銀十シェケル、衣服一そろい、食料を差し上げます。」そのレビ人はすぐに、
ミカと一緒に住むことを了承した。この若者は彼の息子の一人のようになった。
ミカはこのレビ人を祭司に任命し、この若者は彼の祭司となってミカの家にとどまった。

@士師記【協共訳】18:19ー20
士 18:19 彼らは言った。「静かにしなさい。口に手を当て、私たちと一緒に来るのです。私たちの父また祭司となってください。一人の家の祭司であるのと、イスラエルの部族と氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか。」
士 18:20 祭司は気分を良くし、エフォド、テラフィム、彫像を取ってこの民に加わった。


③エクレシアは共同体

いわゆる「主の祈り」は「われらの父よ」(マタイ6:9)。
神は、共同体をひとつとして見ておられる。

旧約においては

@出エジプト記20:1-6【協共訳】
それから神は、これらすべての言葉を告げられた。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。
あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。
それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、
私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。

原語的には、あなた(単数)。

イスラエル共同体を、ひとり、として見ているという視点。

また、他の人がどうであっても「あなた個人は」という視点。


新約において

エルサレムで始まった原始エクレシアは、生活を共にしていた。

@使徒2:41ー47【協共訳】
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
使徒 2:42 そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、
神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。

なお、これは原始エクレシアの在り方であって、現代において、そのまま実践するように教えられている、というわけではない。



@使徒20:7【協共訳】
週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。

パンを割くというのは、パンと葡萄でキリストを記念すること。
そして、それは食事の中で行われていた。
ともに食事をするというのは、親しみ、和解、もてなし、の意味をもつ。


@ヘブル10:25【協共訳】
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

創造主は、人がひとりでいるようには、意図していない。
それは旧創造においても、新創造においても、変わらない。

@ 創世記2:18【協共訳】
また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」


@マタイ18:20【協共訳】
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。


④独立のキリスト者


一人ひとり、神の前にひとりで立つことも、教えられている。

子羊の使徒ペテロは、他の弟子について尋ねた際、
「あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」
そう教えられている。


@ヨハネ伝21:18-22【協共訳】
よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子が付いて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ、あなたを裏切るのは誰ですか」と言った人である。
ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
イエスは言われた。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」


他のキリスト者のキリストとの関係と、自分とキリストの個人的関係は、同じではない。


新約の使徒パウロは独身者として、キリスト者の結婚について教える中で、こう残している。

@Ⅰコリント1:7【協共訳】
私としては、皆が私のようであってほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているので、人によって生き方が違います。

ここから読み取れることは、キリスト者はそれぞれ、与えられたもの、が異なる。そのために、生き方は画一的でない、といえるだろう。



それぞれ与えられた賜物と、それぞれの成熟度(到達したところ)は異なる。

@ピリピ3:13ー16【協共訳】
きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。
しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。
いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。


大切なことは、ひとりひとり、自分の人生の管理者として、所有者である主キリストに聴くこと。

@ヨハネ10:27【協共訳】
私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。


@ローマ10:17【協共訳】
それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。


@Ⅰヨハネ2:27【協共訳】
あなたがたの内には、御子から注がれた油がとどまっているので、誰からも教えを受ける必要はありません。この油があなたがたにすべてのことを教えます。それは真理であって、偽りではありません。ですから、その油が教えたとおり、御子の内にとどまりなさい。
*注がれた油:塗油。膏薬。

この箇所は、文脈としては「偽りもの」「反キリスト」「惑わす者」についての教え。
この御言葉を用いて、「私だけに主が示された」という、妄想的自分勝手、を正当化することはできない。

そしてまた、この「塗油」が教える、ということを軽視することはできない。

御子の内にとどまる、ということは、神の支配下(神の王国=天国)にあるということ。
キリスト者は、地上の人生においても「天国」に生きる存在。
エクレシア共同体は、キリストの肢体であり、「天国」である。


「キリスト教の会」の枠組みにいるかどうかは、どうでもよい。

「キリスト」の内にあるかどうか。

また「キリスト教の会」にいても、主の霊にあって自由であればよい。

@Ⅱコリント3:17【協共訳】
主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。


無所属で自由、を謳っていても、孤立しているだけの「迷い羊」となっているのであれば、それは悲しいお話。


教職者や宗教団体に依存せず、キリストの肢体エクレシアを建て上げる。
そのような独立のキリスト者が求められる。


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