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セカンド・エクソダスのすすめ

①エクソダスとは

エクソダスとは「出エジプト記」のこと。

古代ギリシャ語「エク:外に」、「ソダス:道、方法、敷居、旅」

「外への道」という意味で、一般的に、国外脱出、大量出国。


出エジプト記の出来事は、この「世」から脱出すること。
出エジプト記は、この世から救われることの雛型、モデル。

世:創造主を認めない世界観、社会構造、価値基準、人間中心の思想。

ちなみに、「教会」とよばれる「エクレシア」とは、「外に」「呼び出された、集められた」もの。
原意は、ギリシャの市民集会のこと。
転じて、「この世から召し出されたもの」として使われる。
「教えの会」「教える会」という意味はなく、「召衆」が適当。


②セカンド・エクソダス


@エレミヤ16:14-15

【新改訳2017】
16:14 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った【主】は生きておられる』と言うことはなく、
16:15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。

【聖書協会・共同訳】
16:14それゆえ、その日が来る――主の仰せ。もはや、「イスラエルの子らをエジプトの地から導き上った主は生きておられる」とは言わず、
16:15 「イスラエルの子らを北の地から、また彼らを追いやったすべての地から導き上った主は生きておられる」と言うようになる。私は彼らを、私がその先祖に与えた土地に帰らせる。


BC721に北イスラエル王国はアッシリヤの捕囚に、BC586に南ユダ王国がバビロンの捕囚になる。


エクソダスは「世」から救われることの雛型。

では、セカンド・エクソダスは何を意味しているのか?

セカンド・エクソダス ⇒ 宗教からの脱出。


イエス・キリストを信じた直後は喜びがあった。
その後に「キリスト教の会」に集い。

「キリスト教の会」の文化や価値観には慣れたものの。
今は、喜びはない。

それは、宗教に囚われている兆候。


宗教は、毎週の行事、礼拝式、献金という名の集金、奉仕という名の無償作業に、束縛していく。


③キリスト教とは


イエス・キリストとその使徒たちの教えに、人の思想、異教の文化、を混入させたもの。

パン種を混ぜたパン、それがキリスト教。

黙示録2~3章の七つの教会は、キリスト教会の歴史を預言として描いている。

黙示録2:12-17「ペルガモの教会」
ペルガモとは、結婚、結合、の意味。

4世紀まで、イエスの弟子たち、エクレシアは、迫害されていた。
「主」という言葉、キュリオスは皇帝の肩書のひとつ。
主イエス、という事は、皇帝への反逆とみなされた。

4世紀に公認宗教となり、その後に国教化し、世と結合。
それまでは、家々でパンを裂いてキリストを記念し、イスラエル文化を継承していた。

公認化により、ローマ建造物が集会所となり、家々での集いが禁止され、ローマが任命した聖職者が、ローマ宮廷式の儀式を行うように変質。
国教化の際には、昨日までは異教の祭司だった者が、キリスト教の祭司になったり…。
そこから「キリスト教」という宗教が生まれた。

教会堂と聖職者は、世俗との結合の結果。
そして聖職者の生活維持のために、旧約の什一献金制度を採用した。


その後、キリスト教は、異教を取り込みつつ、拡大していく。
イースターは、春の女神エアストレの祭り、を取り込んだもの。
クリスマスは、異教の祭事の混合であり、聖書には根拠がない。


16世紀に宗教改革が起こり、聖書のみ、というプロテスタントが誕生する。

この時代に、翻訳された聖書が始まる。
それまでは、ラテン語のみ。
ほとんどの人は聖書を知らなかった。
宗教改革により、自国語で聖書の内容を知ることができるようになった。

だが、宗教は改革しても宗教。
儀式による礼拝からの離脱から、教職者による説教が礼拝の中心となる。
現代の日本でも、同様。


④セカンド・エクソダスの実践


@ルカ伝5:37-39
【新改訳2017】
5:37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。
5:38 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。
5:39 まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」

【協共訳】
5:37 また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋も駄目になる。
5:38 新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。
5:39 古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものが良い』と言うのである。


文脈的に第一義的として、当時のユダヤ教が古い革袋、イエスの「思い改めよ、天の御国は近づいた」という、イスラエルへの宣教である「天の御国運動」が新しい皮袋。
ユダヤ教の口伝律法、先祖たちの言い伝えが古い葡萄酒。
イエスの律法解釈が新しい葡萄酒。

第二義的に、私たちへの適用としては、これまで経験してきたキリスト教が古い皮袋、その教えが古い葡萄酒。

そこで問われるのは、古い葡萄酒を飲んでから、新しいものを望むかどうか。


⑤実践例のひとつ


実践のひとつ、その第一は、「先生」という呼称をやめることだろう。

この日本では、小学校6年、中学校3年。

少なくとも9年は、先生、という存在の下に置かれる。

その義務教育で刷り込まれた「先生」への盲従。

それは「キリスト教の会」のおいても、牧師の生徒、といった無意識の思考また無自覚の感覚となって、キリストの聖徒を惑わしている。


@マタイ伝23:6-10
【新改訳2017】
23:6 宴会では上座を、会堂では上席を好み、
23:7 広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

【協共訳】
23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。


第一義的には当時のパリサイ人、律法学者。
第二義的な、適用としては、キリスト教の教職者、牧師などが該当するだろう。


口語訳、新共同訳、新改訳3版まで「先生」。
新改訳2017版でも、2018年の恊共訳でも「先生」。
それでも「先生」と呼ばれ続けている現状。

日本人は義務教育課程の中で、「先生」という存在と関わる。
そこで、教えられたことを記憶し異議を唱えない、そう訓練される。
キリスト教会においても、それが強く影響している。

ここで「ただ一人」と訳される言葉は、マルコ伝では「唯一」という言葉で訳されている。

@マルコ伝12:29
【新改訳2017】
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。

【恊共訳】
イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。


唯一の主、と同じ言葉で、師はただ一人、と言われている。(追記1参照)


キリスト教会において「牧師」という肩書が使われ、「先生」と呼ぶことが一般化しているが、日本語で会話し、日本語で思考し、日本語の聖書を使い、日本語で福音を伝え、日本語で神に仕える者として、日本語の聖書を尊重すべきではないだろうか。


日本語聖書を引用してメッセを語り、聖書は神のことばと言いつつ、自らが日本語聖書を無視するのは、矛盾を覚える。
そこにはなんらかの偽りがあるのではないか。
偽りのあるところは、敵に対して無防備。



ボクシという肩書、先生という呼称。
特別な肩書、呼称、衣装がなければ、敬意が保てないとか。権威がないなどというのであれば、その権威は神からのものではなく、人からのものだろう。


「先生」という呼称をやめる。
これは、新しい皮袋であることについて、新しい葡萄酒を受けることについて、真剣に望んでいるか、ひとりひとりが問われるところではないだろうか。


⑥おわりに。


北の地の捕囚から解放された後も、そこに留まったユダヤ人たちはいた。
宗教の束縛が好ましい方は、それを選択することができる。

これは、「霊の救い」には関係のないこと。
ただし、キリストの弟子、としての歩み、その「魂の救い」には直結すること。召衆/エクレシアとしての機能には、直結するだろう。


@マタイ伝11:18‐20
【新改訳2017】
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

【協共訳】
マタ 11:28 すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。
マタ 11:29 私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。
マタ 11:30 私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」


イエスの弟子は、イエスのくびきを負って、魂に安らぎを得る。


現代は、牧師のためのメンタルヘルス外来ができる時代。
(現在はなくなった模様)


また「聖書はもういらない」という、キリスト教での苦しみを訴える本が出版される時代。


「罪」という言葉は「的外れ」。
的外れのあるところには、敵が働く。
その結果、弱い部分、弱い人が、犠牲になる。
あるところではボクシが病み、あるところではシントが病む。
これは現代日本のキリスト教の結実の一端。


牧仕、という当て字を使う方が見受けられるのは、矛盾解決への糸口かもしれない。

エクレシアは共同体であり、そこに集うキリスト者は、いずれ独りで神の前に立つ存在。
ひとりひとりが、キリストの弟子として、大人として考え、歩むことが望まれている。


追記1

イエスの昇天後、エクレシアには「教師たち」(使徒13:1、エペソ4:11、ヤコブ3:1)がいると記述されているので、マタイ23章の「師は唯一」は現代においては適用されない、という見解があるご様子。
確かに言語では同じ言葉であるし、「教師たち」と書いてあるので、そうした見解は「あり」でしょう。

ただ、イエス・キリストから離れて「教師たち」が立てられたわけではない。この「教師たち」はキリストの働きの増殖、また延長なので、そこには「キリストの思い」(Ⅰコリント2:16)が伴うはず。
「キリストの思い」を持って、マタイ23章を読むのであれば「師は唯一」と認識するのが自然、と思われる。
まあ、お好きにどうぞ。


追記2

聖書の提示するエクレシアと、「キリスト教の会」の差異について。
コチラでは「教会教」という呼称で、その問題点を指摘されている。

【注意】「教会教」に気をつけろ!


参考図書


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