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【掌編小説】 緑の誘導灯

 四十歳になった日に書いた遺書を一年が経ってから読み直すと、その字の美しさには我ながら惚れ惚れとさせられる。私は書道は習ったことはなかった。生まれ育った街に、書道教室がなかったためである。一方でその街にはピアノ教室が三軒あった。どのピアノ教室も内装やインテリア、建築的な構造が非常に似通っており、中に入るとほとんど区別できなかった──見学に行き、玄関を開けるとすぐに、壁に取りつけられた鹿の頭部が目に入る。その頭部の、普通の鹿ではあり得ない、何十本も枝分かれた明らかに病的な形の角が、十一歳だった私の不安を殊更に煽るのだ。
 結局ピアノは習わずに柔道を習うことにした私が、練習の後に柔道着を着たまま、熱帯魚のお店で餌や清掃用のスポンジなど父親から頼まれた品を購入して店を出ると、夜になったばかりの薄闇の中で、目の前の太い環状道路がほのかに緑色に照らされていた。「ああ、緑色というのはなんて中途半端で素敵な色なのだろう、錦鯉だって、ザリガニだって、あんな派手な色をせずに緑色くらいになっておけば、人間に捕まって飼育されて生涯を棒に振る可能性も減るに違いない」しかし、緑色のインコや熱帯魚もしっかりと人間に捕まって愛玩されているのだからこの推論は誤りだ。そもそも、緑色は別に特段地味な色というわけでもない。一体、何がこのあたりを緑色に照らしているのか? 道路沿いにはクスノキが街路樹として植えられ、また歩道を挟んで特に面白くもない三階から五階建ての建物が立ち並んでいたが、その中で、ちょうど熱帯魚店に対して道路を挟んだ反対側にある建物の一階、赤い暖簾のお好み焼き屋だけは"面白い"と言えそうだった、その店では、夏になるとカブトムシやクワガタ、秋にはスズムシなど、店主が趣味で捕まえてきた虫たちを来店した子供たちにプレゼントしていたのだ。味もそんなに良くないし、何より、虫を触った手でお好み焼きが作られると思うと食欲が減退する、というのがこの辺りの住民の評価だったが、それでもいつもそれなりに繁盛していたのは、虫が欲しくてたまらない子供たちの興奮を鎮めるために親が連れて行くからに他ならなかった。「クワガタ、いるかな」と食べ終わった子どもが言う、「ちゃんとあんたで掃除したり面倒みなさいよ、去年はちっちゃい虫がたくさん湧いて大変だったんだから」と親は言う、それを聞いているのかいないのか、店主は油を鉄板に引いて新しいお好み焼きを一枚作り始める、店主の灰色のゴールドジムのTシャツは汗でほとんど黒色だ。
 緑色の光はさらに強まり、お好み焼き屋の暖簾ももはや何色をしているのか全く分からなかった。私が熱帯魚店のレジ袋をなんとなく持ち替えた時、右の方から、緑色の回転灯をルーフに付けた一台の車がやってきて通り過ぎた。そうか、あいつが緑色の光源だったのか……それにしても、あの車は何だったのだろう? 何か特殊なパトカーなのか、それとも目立ちたがり屋が考えた行きすぎた装飾だろうか? その時だった、緑色の回転灯の車が通り過ぎた後の暗闇の中から、ガタン、ガタン、という西部劇の汽車のような無骨な音をたてながら、自らの目の前の空気を蹴散らさんばかりの勢いで、全長60mはありそうな巨大なトレーラーが現れた! そのトレーラーはまるで何か一つの概念──例えば「力」とか「重さ」とか、「強さ」とか──を象徴しているかのようだった、見ているだけで全身の筋肉が強張るような暴力的な印象を見た者に与えた。
 あれから三〇年も経った今では、さすがにトレーラーの生々しさも薄まり、物事を過剰に象徴的に捉えたがるあの忌々しい心の働きからも自由になれる、と言い切れるか自信がない。ちなみに、緑色の回転灯の車は、大型車両や特殊車両を誘導し周りに注意を呼びかけるためのものだった。それにしても、肝心の、トレーラーが牽引するコンテナの中には何が入っていたのだろう? 大きな鯨の死骸? 熊の大家族? それとも、びっしりと埋め尽くされた、蟻の大群? どうして生き物が入っていると想像してしまうのだろう、別に生き物が入っていると決まっているわけではない(むしろその可能性は低い)、それなら大量のテトラポッド、巨大な彫刻作品、宇宙船の何かの部品、……。

 四十歳の時、どうして遺書を書いたのか全く分からない。持病はない、妻も三人の子どもも元気だ、生活に猛烈な不満があるわけではない、ましてや自殺願望なんて微塵もない。自分の中に理由が見出せないならば、外的な要因を疑わなければならない──あの三十年前の緑色の光は、死の世界の太陽の光で、生きている人間にとっては遅効性の毒のようなものだったのかもしれない──私は目がそんなに良くない方なので死には至らなかったが──などと想像力を逞しくしている私はやっぱり字が生まれつき綺麗だ。(おわり)


初めてnoteに小説を投稿しました。
これからどうぞよろしくお願い致します。

ちなみに、見出し画像は御岳山(東京都)に登った時に撮った写真です。
(小説の内容とは微塵も関係ありません)
(2024/03/07 追記: 御岳山ではなく、多分神奈川県の大山に登った時の写真でした)

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