【ためになる?コラム】故事成語辞典:その27「周章狼狽」の巻
今回のテーマは「周章狼狽」です。しかしこちらは由来に定説がないのが現状ですので、独断と偏見で記事を展開させていただきました。あくまで「私はこう思う」という内容の記事であり、学説ではありません。そのあたりはご容赦願います。
なお、このコーナーの記事も30回をめどに終了したいと考えております。今回を含めて残り4回、以降は故事成語として大御所とも言えるような言葉をご紹介していきたいと考えておりますので、最後までお付き合い頂ければと思います。
それでは早速始めさせていただきたいと思います。「周章狼狽」です!
【周章狼狽(しゅうしょう・ろうばい)】
意味:
あわてふためくこと。「周章」、「狼狽」それぞれ単独で用いても慌てることを意味する。「周章」は現代日本での表現として単独で使用されることは少ないが、「狼狽」はよく用いられる。
用法:
「狼狽者」と書いて「あわてもの」と読む。また「周章てる」と書いて「あわてる」と読む。さらに言えば、「狼狽える」と書いて「うろたえる」と読む。
ただし「あわてる」は「慌てる」という漢字表記が立派に存在するので、いまさら「周章てる」と書くような人物には、わざわざ他人が読めないような表記をすることで自分の知識をひけらかそうとする意思があると判断するべきだろう。ひとことで言うと、嫌な人物である。
そのような人物にマウントをとられて嫌な思いをしないように……そのような目的をもってこちらの記事を読んでいただきたい。
由来:
特に「周章」については私の仮説となるので、あとで詳しく解説したい。ただし「狼狽」に関しては「想像上の動物」ということが明らかとなっている。「狼狽」は「狼」・「狽」に分けられるが、「狼」は実在する「オオカミ」を指すのではなく、あくまで「ろう」である。
「狼」は見た目こそオオカミに似ているが、前足に比べて後ろ足が極端に短く、単独ではうまく歩けない。
これに対して「狽」は前足が極端に短く、後ろ足が長い動物だとされる。やはり、単独ではうまく歩けない。
したがってこの二匹は下の図のように、狼を前・狽を後ろという形でドッキングしないとうまく歩けないのだ。
狼・狽は離れてしまうと、バランスが崩れてしまい、パニックを起こすのだという。この様子を示して「狼狽」が「慌てる」という意味になった。
解説:
【周章とは?】
何度か申し上げていますように、「周章」については「大辞泉」や「広辞苑」などにも語源については説明がありません。しかし「周」や「章」……それぞれの漢字自体の意味に「慌てる」というものはないので、やはり「周章」という言葉には独自の由来があるに違いないのです。
私は、これを人物の名だと考えています。
「周章」という人物は、古代中国に2名、存在が確認されます。1人目は春秋時代に覇を唱えた呉国の第5代君主である「周章」です。ただしこの人物については存在したという事実くらいしか確認がとれておりません。そもそも天下に覇を唱えた呉王闔閭は24代目、夫差は25代目ですので、周章はかなり昔の人物です。呉国の名前も、まだ「句呉(くご)」と自称していた時代で、ほとんど神話時代の人物だと言えましょう。しかもそれに「慌てる」という意味をあてがう理由は特に見出せません。
もう一人の「周章」は秦が崩壊の危機を迎えた時期の人物で、軍人です。彼は陳勝呉広の乱の際、秦の首都である咸陽に迫った将軍でした。それまで咸陽を守る「函谷関」は外敵に破られたことが歴史上一回もなかったのですが、周章は初めてこれを「抜いた」人物です。このとき咸陽一帯の人々は、初めての事態に大いに慌てたとのことですので、この人物が「周章」の由来に間違いない、と私は考えます。
というわけで、以下に周章将軍にまつわるお話をさせていただきたいと思います。
【楚将周章】
前回の記事で「戦国四君」についてのお話をさせていただきましたが、周章は楚の春申君に仕えたことがあり、かつては軍の視日(しじつ・日時の吉凶を占う官)でした。このため軍組織に詳しく、その運用方法についても習熟していた、といいます。
ちなみに春申君以外に周章が仕えていた人物には「項燕」がいます。これは後に活躍する項羽の祖父、項梁・項伯の父にあたる人物です。それぞれがどのような人物かはここでは詳しく説明しませんが、いずれもビッグネームであることは確かです。項燕は秦によって楚が滅ぼされる前、最後まで中心となって抵抗した宿将とも呼ぶべき人物でした。
この周章が新たな主人として選んだ人物が陳勝です。陳勝とは世界史上初めて農民叛乱を起こした人物で、言ってみれば「革命の祖」です。現代では何ごとも物事の始まりを「陳勝呉広」と表現したりしますが、それは陳勝が盟友の呉広を伴い、人類で初めて革命を起こした事実に起因するのです。
陳勝は「王侯将相寧んぞ種あらんや(王侯將相寧有種乎)」という現代まで残る名言を残し(王侯、将軍、大臣、どれも同じ種であること・同じ人間であることに変わりはない・誰でもなれる)、自ら王を称しました(以降、陳王と呼ばれます)。周章はその陳王の下に馳せ参じたのです。
陳王は周章に将軍の印璽を授け、その軍を西に向けさせました。秦の根拠地である咸陽を狙え、というのです。このとき陳王は、諸将軍を各地に派遣しています。魏には周市、趙には武臣、呉には鄧宗などなど……そのほかにも陳王の動きに呼応して各地には次々と自立勢力が誕生しました。斉には田儋、楚には項梁、沛には劉邦、燕には韓広などなど……。
しかし彼らの思惑はさまざまです。皆が協力して秦へ対抗し、新たな国家を樹立するために努力したかと言えば、決してそのようなことはありませんでした。楚は楚、魏は魏、斉は斉で、どこの国も最後には自分たちが頂点に立つことを考えています。実際に陳王は趙に武臣を派遣したものの、武臣はその地で自立して王となってしまいました。さらに言えば、燕で自立した韓広という男も、もともとは武臣の部下なのです。部下が自立して王を称するだけならまだしも、このように部下の部下まで王を称す世の中……この時代は下剋上の最たるものと言えるでしょう。
そのようなことを考えれば、周章という男に陳王は大きな信頼を寄せていたことがわかります。彼は並み居る偉丈夫たちの中からひとり選ばれ、秦の首都を攻略するという、もっとも重要な任務を与えられました。そして彼は実際にその信頼に応えたのです。
周章は、それまで鉄壁を誇っていた函谷関を抜きました。その軍の規模としては、兵車千乗、士卒数十万であった、と記録されています。しかも周章は最初からその数を与えられていたわけではなく、函谷関に進軍する途上、自分でそれを集めたのだ、と言われています。武勇に優れることもさることながら、彼には人望もあったのだと思われます。
そして実際に函谷関を破られた秦の宮殿は、激しく混乱したといいます。二世皇帝・胡亥はこのときおおいに驚き、群臣にむけて、「どうしよう?」と聞いたといいます。
(「二世大驚,與群臣謀曰:『柰何?』」史記:秦始皇本紀より)
【革命の終わり】
しかし滅びの危機に瀕した秦を救おうとする人物が現れました。それは少府という地方の徴税官にすぎない立場にあった章邯という男で、彼は囚人を解放したうえで兵とし、それを自ら率いて周章と対決したのです。
結果的に周章はこの戦いに敗れ、自刎して果てました。
高校の世界史では、陳勝呉広の乱をきっかけに秦は滅び、のちに漢が建国された、と授業で習うと思います。しかし実際には陳勝呉広の乱は失敗に終わり、周章を倒した章邯は、その後奮戦して各地の諸勢力のほとんどを倒しました。秦は勢いを盛り返したのです。
形勢不利となった陳勝軍は、いっこうに戦いに勝てない呉広が部下に殺されたことをきっかけに組織の瓦解が進み、最後には陳勝自身が自分の馬車を操る御者によって殺されてしまいました。彼の主導した革命は、ここで失敗を告げました。
反対に勢いづいた秦将章邯は、一回の戦いで魏王咎(きゅう)と斉王田儋を同時に殺し、さらには楚の項梁をも死に至らしめます。その後章邯は趙を攻め、鉅鹿にその軍を包囲したのですが、ここで項梁のあとを継いだ項羽に敗れてしまいました。その戦いのさなか、咸陽は劉邦率いる軍に占領され、ここでようやく秦の支配は終わりを告げたのです。
しかしまだこの時点で「漢」という国は誕生さえしていません。その後の覇権は戦いに生き残った項羽と劉邦のふたりによって争われていくのです。
いずれにしても、「周章」という言葉が「驚く」「慌てる」などを意味するようになった由来としては、私としてはこれ以外考えられません。
関所が破られて周章がいよいよ迫ってきた……皇帝は「どうしよう」などと弱音をこぼし、群臣はなすすべを知らない……それが転じて、「周章」とは「慌てる」という意味を示すようになった、そういうことだろうと思います。
では次回もお楽しみに。(残り僅かです。)
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