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【ためになる?コラム】故事成語辞典:その25「人生朝露の如し」の巻

 今回のお話は長くなりそうです。しかも重くなりそうです。わかりやすく解説することも難しそうです。どれほどの方々に分かって頂けるか不安なのですが、極限とも言える状況でこそ問われる「人の生き方」について、真面目に語らせて頂きたいと思います。
 これからお話しする内容は古代の話ですが、現代に置き換えて考えることも可能な話です。長い人生において何を大事にするか、そんなことを思いながらお読みくだされば、と思います。

 長くなりそうなので前説もほどほどにして、さっそく始めさせていただきたいと思います。
 「人生朝露の如し」です。


【人生朝露の如し(じんせいちょうろのごとし)】

意味
人の一生は朝日が射せばすぐ消えてしまう霧のようにはかなく、もろい」ということのたとえ。日本語でこれを表現する場合、朝露は「あさつゆ」と読むのではなく、「ちょうろ」と読むのが正しい。

由来
 紀元前100年、蘇武という人物は使者として匈奴の地を踏んだ。しかし彼は自分自身の行為とは関係なく、罪を着せられ抑留されてしまう。かたくなに自身の無実を主張し、匈奴への帰順を拒否する彼を説得する役目は、李陵という人物に授けられた。「人生朝露の如し」とは、その李陵が蘇武を説得する際に用いた言葉である。

蘇武(中央)と李陵(右)抑留当初は黒かった蘇武の髪や髭は、このときすっかり白くなっていました。


解説:

【李陵、匈奴に敗れる】

 李陵については中島敦先生の小説が有名ですね。「山月記」とともに彼を代表する作品なので、未読の方にはお勧めします。短編なので数分で読めます。
 だいたいそちらを読んでいただければ李陵という人物の概要はおわかり頂けると思いますが、せっかくなのでこちらでも解説させていただきます。

 李陵は隴西の出身。隴西とは現在の甘粛省で、西域の手前にあります。彼の一族は、代々この土地に住み、辺境守備を任務としてきました。李陵の父は、皇帝の眼前で佞臣を殴打したという剛直の士、李当戸です。祖父は匈奴から「飛将軍」として恐れられた李広。さらに先祖を辿れば秦の時代に活躍した李信将軍にまで辿り着きます。非常に誇張されていますが、李信将軍とは、「キングダム」の主役にあたる人物です。

 李陵は字(あざな)を少卿といいました。上述の通り武門の名家に生まれたので、騎射術に長じ、教養・礼節ともにある男だったといいます。当時の皇帝である武帝は、そのような彼に祖父(李広)の面影を見て、一軍を授けました。

 しかし李陵はもともと単独で軍功を得ることに執着があるような人物でした。ええかっこしいといえばそれまでですが、名門として生まれたためにプライドが高いのか、それとも他者を信用することが苦手なのか、「寡兵をもって衆兵を伐つ(『臣願以少擊眾』)」ことにこだわりを見せます。

 かくして李陵は、紀元前99年に5千名の歩兵だけを率いて匈奴と対峙しました。このとき李陵の軍を囲んだ匈奴軍は、3万騎であったと記録されています。5千の歩兵と3万の騎兵の戦いです。少ない兵で多数を伐つとは李陵の本懐ではありましたが、事実上勝ち目はありませんでした。

 それでも李陵は奮闘します。一時は匈奴を追いつめて、数千騎を倒しました。しかし匈奴は援軍を集め、さらに8万の騎兵で李陵を囲んだのです。激戦が繰り広げられましたが、状況は匈奴の圧倒的優勢でした。

 その実態を示すものとして以下のような一文が見られます。

一日五十萬矢皆盡(漢は、一日で50万本の矢を使い果たした)

 それでも勝てなかったというのですから、このときの匈奴がいかに強力だったかがわかります。ついに李陵は味方を逃がし、単身で単于(匈奴の王)と対決しようとしました。

毋隨我,丈夫一取單于耳(私に付いてくるな。『ますらお』は一身で単于に立ち向かう、それだけのことだ)」

 李陵の覚悟のほどがうかがえる発言でしたが、この後彼の率いる漢軍は敗れ、匈奴に降伏を余儀なくされたのです。

【李陵を擁護する者】


漢の太史公・司馬遷

無面目報陛下(なんの面目があって陛下に報告できよう)」

 李陵はこう言いながら降伏したのですが、このとき助かって漢の地へ戻った兵が400名ほどいたようです。彼らから敗戦の報告を受けた武帝は、李陵に勇壮な「死」を望みました。

 不思議な風習ではありますが、このとき武帝は李陵の母と妻を呼び寄せ、その人相を占ったといいます。その結果、李陵がまだ生きていると判明してしまいました。

 それはその後の報告によっても明らかになります。武帝は激怒しました。群臣は皆恐れ、揃って「敗戦の責任は李陵にある」と口々に言い立てたのです。

 しかし群臣の言葉は正しいのかもしれません。もともと武帝は出征する李陵にしっかりとした軍備・兵馬を与えようとしていました。それを「寡兵をもって衆兵を伐つ」などといって断ったのは、そもそも李陵の側なのです。

 武帝としては大言壮語したにもかかわらず、敗戦したうえに敵の捕虜となった李陵のことを許せなく思ったに違いありません。なぜいさぎよく死ななかったのか、と思ったことでしょう。

 このことについて武帝は太史公(歴史官)である司馬遷に問いました。

 すると司馬遷は強く言い放ったのです。

李陵は一身を顧みず、国家の危急に殉じました

ひとたび不幸に陥るや、我が身を全うすることと妻子を保つことのみばかりに汲々たる臣どもが、互いに追随するように李陵に罪を擦り付けようとしています。このような事態は、痛恨に耐えませぬ

彼が死ななかったのも、いつか敗戦の罪を償い、国に報いようと期してのことに違いありませぬ
 
 しかし武帝はこの言葉を容れませんでした。武帝は司馬遷の言葉を「誣妄(ぶもう)」だとして、彼を宮刑に処しました。

宮刑……古代中国で死刑に次ぐ重い刑罰。男性は去勢され、女性は終身監房に幽閉された。腐刑。

ウィクショナリー日本語版より引用

 その後一年あまりして、思い直した武帝は李陵を匈奴の地から救出すべく、軍を派遣しました。しかしよい結果は出ず、悪い噂だけがもたらされます。
 その噂は以下のようなものでした。

李陵教單于為兵以備漢軍(李陵は単于に戦術を授けて漢軍に備えさせている……単于とは匈奴の王のこと)」
 これを聞いた武帝は、李陵の一族を皆殺しにしました。そして隴西の人たちは、みな彼のことを恥じたといいます。

 しかし事実はこれと違ったのです。降伏した漢の軍人が匈奴に策を授けているという事実があったことは確かですが、それを行っていた者は李陵ではなく、李緒という人物だったのです。「李」違いなのでした。
 そのせいで一族皆殺しにあったという事実を知った李陵は、激怒したあげく、李緒を殺害しました。

 この行動を知った匈奴の単于は、李陵を偉丈夫と見込みました。単于は李陵に自分の娘を妻合わせ、「右校王」としたのです。

 漢側は何度か使者を送り、李陵に帰還を誘いました。ですが、一族妻子を殺された李陵の心はすでに漢にはなく、彼はその誘いを断り続けたのです。


【蘇武捕わる】

蘇武は北の地に追いやられました。彼が追われた地は……

 蘇武は字を子卿といいます。父親は大将軍衛青に従って匈奴を討った蘇建でした。もともと蘇武は父親の功績によって仕官を果たした男で、軍事的功績はありません。彼は匈奴への使者としての役割を果たすこととなります。その任務は、いわゆる捕虜交換でした。

 この当時には、匈奴の領内に漢の降将などが割と多くいます。その立ち位置はさまざまで、進んで匈奴に協力している者もいれば、機会さえあれば脱出し、漢へ戻ろうとしている者もいます。虞常(ぐじょう)とは漢に戻ることを欲していた人物でした。この虞常が、使者である蘇武一行の到着を待って、叛乱を起こそうと画策しました。

 虞常は蘇武の副使である張勝に接触し、計画を打ち明けます。副使の張勝がこれを承諾したのですが、これらはすべて蘇武の知らないところで行われたのでした。
 しかし計画は漏れ、叛乱は失敗に終わりました。虞常は生け捕られ、計画の詳細が単于の知るところとなりました。ここでようやく張勝は、蘇武に仔細を打ち明けたのです。

 果たして計画の全貌があきらかとなり、彼らは匈奴に帰順することを要求されることとなりました。しかし単于らがそれを言い渡そうとした場で、蘇武は自らを剣で刺したのです。

「生きていても、なんの面目があって漢に帰ることができよう(雖生,何面目以歸漢)」
 蘇武は周囲の人たちの介抱があって息を吹き返しましたが、その後は匈奴での抑留生活を送ることとなったのです。
 
 蘇武はかたくなな男でした。李陵は妻子を武帝に殺された結果、心を漢から離したのですが、蘇武の心は漢のみにあり、匈奴側がどんなに帰順を説得しても、態度を翻しませんでした。

 そういうわけなので、匈奴の単于も意地になります。

 なんとしても蘇武を匈奴に帰順させたいと思った単于は、蘇武を洞窟に閉じ込め、いっさい食物を与えないという処置を施します。
 ところが蘇武は空から降る雪を食べたりしながら生き存えたのです。業を煮やした単于は、蘇武をさらに北の地に追放し、「オスの羊が子を産むようなことがあれば帰してやる」と約束しました(「羝乳乃得歸」)。

【李陵、蘇武を説得する】

 オスの羊が子を産むなんてことは、あり得ません。蘇武は、事実上帰還を許されなかったのです。しかも彼が送られた地は「北海のほとり」と記録されています。これは「バイカル湖」を示すのです。極寒の地です。

バイカル湖はモンゴルの北、もうすでにロシアです

 そこで蘇武は羊を飼ったり、野鼠を捕らえたり。草の実を蓄えたり……まるで原始人のような生活を余儀なくされました。しかし、それでも彼は生き延びたのです。いっこうに帰順しようとしない蘇武に手を焼いた単于は、右校王たる李陵をバイカル湖に派遣しました。ふたりは漢にいた当時、ともに侍中という職にあって、仲がよかったのです。

 そこで李陵は説得を始めました。このとき彼が蘇武に伝えた内容は以下のようなものです。

 蘇武の兄と弟は、ふたりとも罪を着せられて誅殺された

 母親はすでに死した

 妻はすでに別の男と再婚した

 妹たちの行方はまったくわからない

……李陵はそれらの事実をいちいちあげつらいます。李陵自身は皇帝に自分の家族を殺されましたが、蘇武もほとんどそれと同じような状況だったのです。

 そこで李陵は問います。

人生は朝露のようにはかないもの、なぜいつまでもこのように自らを苦しめるのか」(『人生如朝露何久自苦如此』)

 さらに追い打ちをかけるように問います。

「子卿、お前はいったい誰のためにそうして耐えているのか。お願いだからこの李陵の言うことを聞くのだ」(『子卿尚復誰為乎? 願聽陵計』)

 しかし蘇武は首を縦に振りませんでした。
「臣下が君主に仕えることは、子が父に仕えることと同じだ」(『臣事君,猶子事父也』)

もう二度と言わないでくれ」(『願勿復再言』)

 蘇武の意思は岩のように硬く、かたくなに節を守ろうとします。結局、李陵は説得をあきらめざるを得ませんでした。
ああ、義士なる哉!(嗟乎,義士)」李陵は叫び、涙を流して蘇武と別れたと言います。

 しかし李陵はその後、陰ながら蘇武を援助しました。牛や羊をバイカル湖のほとりまで贈ったりして、彼が飢えることのないように、はからったのです。そして自分はというと、ついに漢へ戻ろうとしませんでした。

 一方蘇武は、漢で武帝が崩御したあと、帰還を果たします。蘇武が北の地に抑留されていた期間は十九年に及び、戻ってきたときは顎髭も髪の毛もことごとく白くなっていた、といいます。

 その後、李陵は北の地で亡くなり、蘇武は八十過ぎまで生きました。「人生とは朝露のようにはかないもの」と説得した李陵でしたが、皮肉なことに蘇武の方が彼より15年ほど、長生きしたのでした。


 いかがだったでしょうか。長かったですね〜と毎回のように言っている気がしますが、今回は特に長かったですね。

 結論から言うと、李陵は名家に生まれ、軍人として実際に戦いながら、漢に対する思いを断ち切り、二度と戻ろうとしませんでした。家族を惨殺されたという思いが、そのまま祖国に対する怨みと転じたのです。

 蘇武は同じように兄弟を国によって殺されています。しかし彼は節義を通し、最後まで祖国へ戻ろうとしました。私などの目には、まるで洗脳されているかのように見えてしまいます。

 人の生き方としては、李陵の方が素直であるように思えます。ただしそれは現代人としての私の感覚であり、当時の人々にとっては裏切り者のように見えたのかもしれません。ただし、司馬遷だけはそのように見做さなかったのでした。

 彼が蘇武のことをどのように見たか、それが興味を引き立てます。
 しかしそれについての記述は、残念ながらどこにもありません。
 非常に残念なことです。

 蘇武が忠節の義士であることは間違いありませんが、冷静に考えるとなぜそこまでして……という思いがわきます。やはり洗脳でしょう。 
 この蘇武の感覚……共産党政権を支持する現代中国人の感覚と似ているように思えます。

 そう思うのは、私だけでしょうか?

(文中引用した原典はすべて、班固著『漢書』李広蘇建伝より)


ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。
次回もお楽しみに!

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