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【ためになる?コラム】故事成語辞典:その29「四面楚歌」の巻

 今さらという感じではありますが、かりそめにも故事成語辞典を標榜している以上、「四面楚歌」はやらねばならないテーマです。終盤に向けて大事に大事に取っておいたテーマではあるのですが、どうも「楚漢戦争」を扱うと支持されない傾向にありますので、今回も結果を気にすることなく、自由に述べさせていただきます。

 こちらの時代については、このコーナーでも何度か取り上げさせていただきました。よって、内容が重複する場面も文中に現れますが、最後だと思ってお付き合い下さい。

 では始めさせていただきたいと思います。「四面楚歌」です。


【四面楚歌(しめんそか)】

意味

 敵の中に孤立して、助けのないこと。周囲が敵ばかりでまったく味方がいないことのたとえ。孤立無援と同義。

解説

 先述したように時代は楚漢戦争期。具体的には、紀元前203年から202年の出来事です。
 紀元前203年9月、漢と楚の両国は、長引く対峙状態を解消するべく、和睦を結ぶに至りました。漢は「敖倉(ごうそう)」と呼ばれる秦時代からの穀物庫を確保していたので食糧の補給に問題はなかったのですが、漢王劉邦の妻(呂后)と父(劉太公)を楚軍に人質として捕らわれていたことで、容易に攻め込むことができませんでした。これに対して楚は、軍事的な能力については漢に優っていたといいます。楚王項羽その人の武勇は当代随一で、それに従う楚兵の剽悍さは、漢兵とは比べものにならなかった、と言われています。しかし、楚には食糧がありませんでした。

【和睦は偽り】

 楚と漢は広武山で対立を繰り広げていましたが、そのさなか漢王劉邦は胸に矢を受け、負傷します。これにより絶対的優位に立った楚ですが、不思議なことに漢の兵力は衰えませんでした。漢は敖倉を抱えていて食糧に不自由しないという事実のほか、その根拠地である巴蜀(現在の四川省を指す。巴は重慶・蜀は成都)は豊穣の地で、多くの人民を抱えていたのです。そこから常に兵が補充されるのでした。

 この状況に危機を感じた項羽は、さすがに和睦の可能性を探り始めます。自軍に食糧が欠乏していることを自覚していた彼は、漢側が和睦を申し出たことを、密かに喜びました。しかし、それをあからさまに態度に示す項羽ではありません。彼は自分のもとに送られてきた使者を何度か追い返し、威厳を保った形で和睦を成立させました。「鴻溝」以東を楚の領地とすることを認めさせた代わりに、呂后と劉太公を解放しました。両軍兵士はこれに「万歳」を唱え、お互いに広武山からの撤退を始めます。

以前も使用した画像ですが、こちらが鴻溝です

 しかし漢の申し出は「策略」でした。軍師張良は、この機を逃さず楚軍を追い、とどめを刺すよう劉邦に進言します。これを受けて漢軍は故郷へ戻ろうとする楚兵たちのあとを追い始めました。(乾坤一擲の項を参照)

 しかし楚軍は、基本的に強いのです。正面からぶつかっては漢軍に勝ち目はなく、実際に固陵という地では敗れました。漢には援軍が必要なのです。漢王劉邦は、ここで別働隊を率いて諸国を攻略した斉王韓信・楚国の南、淮南の地で暗躍していた猛将黥布・楚の食糧補給線をたびたび分断しゲリラ的な活躍をしてきた梁の宰相彭越の三名に集結するよう要請します。彼らにはそれぞれ思惑があったとされ、すぐに集まることはなかったようですが、最終的に彼らは垓下に集いました。西から劉邦率いる漢軍、北から韓信率いる斉軍と彭越率いる梁軍、南からは黥布率いる淮南軍……楚軍は進退極まりました。

【垓下の戦い】

 垓下に集結した漢軍の兵力は、総じて40万ほどであったと言います。これに対して楚軍は10万ほど。漢軍の指揮は知将韓信が担当し、これを知った項羽は垓下に砦を築き、籠城戦を行うことに決めました
 しかし籠城戦というものは、自軍が籠城している間に、外から援軍がやって来るを前提として成り立つ作戦です。ですが、このとき項羽を助けてくれる軍は存在せず、しかも彼らはここで残った食糧をほとんど食い尽くしてしまいました。項羽はここで戦いながら、隙を見て脱出するつもりだったと思われます。しかし韓信が意外に垓下の攻略に苦労している様子を見て、勝てると思ったのでしょう、項羽は兵を城外に出してしまいました。そこで大半を殲滅されてしまうのです。

【虞美人】

虞美人。剣の舞

 漢軍は垓下の砦に閉じこもる楚軍を何重にも囲みました。項羽に残された兵は少なく、食は尽き果てていました。
 途方に暮れた項羽の目には、自分たちを取り囲む漢兵たちの姿がよく見えました。しかし驚くことに、彼らはなぜか「楚歌」を歌っているのです。なぜ敵であるはずの彼らが、自分たちの故郷の歌を歌うのか……。

 この不思議な現象のことを、項羽は以下のように結論づけます。

「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也(漢はもはや楚地をすべて取ったのか。〈敵軍中に〉なんと楚人の多いことか)」

 この事実については、具体的に記述がありません。これが漢の戦略だと断じる向きもあるようですが、司馬遷や班固の記述にはそのようなものはなにも……劉邦が歌えと命じたとか、韓信がそうしろと命じたとかいう記述はないのです。まさか包囲作戦中に酒宴が開かれ、盛り上がった連中が歌いはじめた……そういうわけでもないでしょう。私は、誰に命じられるわけでもなく、漢軍の中にいる楚出身の兵たちが勝手に歌い出したのだと思います。その兵たちは、もしかしたら城中にいる項羽の動揺を誘おうとしたのかもしれません。あるいは単なる鼻歌だったのかもしれません。しかしそれは漢の陣中にいる楚出身の兵たちの間に伝播し、やがては大合唱となりました。結果的に項羽が動揺したのも無理はありません。

 意を決したのか、項羽は陣中で酒盛りを始めました。そこで、彼も楚歌を歌うのです。それは次のような歌でした。

力拔山兮氣蓋世(力は山を抜き 気は世を覆う),
時不利兮騅不逝  (時利あらずして 騅逝かず)。
騅不逝兮可柰何  (騅逝かざるを 如何すべき),
虞兮虞兮柰若何  
虞よ虞よ なんじを如何せん

 楚歌の特徴的なところは「」という文字にあります。こちらには文字としての意味はなく、調律的な意味合いで用いられる語だとされます。この歌は、高校時代に漢文で習った人も多いのではないでしょうか。その際に概要も教わったとは思いますが、ここで改めて説明させていただきます。

 まず「」とは「すい」と読みます。これは項羽の愛馬の名前です。彼は戦況が自分の思うようにならないことを「騅が前に進まない」という手法で言い表しました。

」とは言うまでもなく「虞美人」のことで、これは項羽の愛妾です。このときも虞美人は項羽のそばにあり、項羽とともにこの歌を歌った、と史記には記されています(歌數闋,美人和之)。

 一般的に虞美人は、この時点で項羽に斬り殺されたとされます。しかし実際にはその記述はなく、読者の想像に任せられている形です。ですがやはり斬られたとみるのが正解でしょう。なぜかと言えば、このあとの項羽の脱出行に虞美人は同行していませんし、生きていたとすれば、好色だと言われた劉邦などが、放っておくはずがないとも思われるからです。しかし、そのような記述はどこにも存在しません。

 また虞美人は次のように歌い添えたとも言われています。

賤妾いずくんぞ生に安んぜん……

 わたしのような妾がどうして生に執着していられましょうか、と歌ったのです。足手まといになるから殺して下さい、という意味でしょう。


 そして司馬遷は以下のように記しました。

項王泣數行下,左右皆泣,莫能仰視
(孝王の頬には数行の涙が下った。左右の者も皆泣き、誰も顔を上げることができなかった)

 その後、項羽は垓下城を脱出し、その途上で滅ぼされます。これについては以下にて説明しましたので、興味のある方はご参考にしてください。


 いかがだったでしょうか。結局「楚歌」とはどういうものだったのか……あまり正体ははっきりしていませんが、こちらもたぶん「兮」という文字が含まれる歌だったのだと思われます。項羽はこの楚歌がによって、絶望的に自分が追い込まれていることを自覚したのでした。彼は泣きながら恋人である「虞」を斬り、脱出を強行します。しかしその途中で愛馬「騅」を人に託し、自分の道連れとはしませんでした。彼の悲哀がよく示されたお話だと僕あたりは思うのですが、皆さまの共感は得られないかもしれませんね。

 過去記事をまとめたマガジンです。

 最後までご覧いただきましてありがとうございました。あと1回で終わりますので、「付き合い」でスキボタンを押さねばならない皆さまのご苦労がひとつなくなるかと思います。

 これまでご迷惑をおかけしてすみませんでしたと、先に言っておきます。ユートピアの新聞のようなつまらない記事を書いてきたつもりは全くないのですが、結果的に支持を得られなかったことは残念です。もうほかの道を選びますが、一応最後まではやり遂げます。

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