【ためになる?コラム】故事成語辞典:その30「臥薪嘗胆」の巻
ここまで細々と続けてきましたが、どうにか目標としていた30回を迎えることができました。応援してくださった皆さまのおかげです。誠にありがとうございました。
今回が最終回となりますので、故事成語と言えば必ずと言っていいほど出てくる「臥薪嘗胆」にまつわるお話をお届けしようと思います。今さら、と思う方もいるかもしれませんが、なんにしても最終回なので……。
自分に関してはすでに身辺整理をさせていただき、フォローの解除、関連ツィートの削除などを行わせていただきました。特にフォローを解除したことについては皆さまにご迷惑をおかけすることとなってしまいますが、ご理解くださるようお願いいたします。
それでは始めさせていただきたいと思います。「臥薪嘗胆」です!
【臥薪嘗胆(がしん・しょうたん)】
意味:
復讐の意志を消さぬためにあえて自らに試練を課すこと。「臥薪」は「薪の上に臥す」の意。柔らかな布団に横になるのではなく、極めて固く寝心地の悪い薪の上で寝ることをさす。
「嘗胆」は「胆(きも)を嘗(な)める」の意。生の胆は嘗めると苦く、決して美味ではない。あえて不味い胆を嘗めることによって、ハングリーさを失わないように自らを戒めることをさす。
用法:
ひとことで言うと、現代ではあまり歓迎されない言葉である。企業のトップがこの言葉を用いれば、現代に生きる社員たちの多くが反発するだろう。上の者がこの言葉を用いたときには、暗に「痛みに耐えろ」などと言っていると理解すべきであり、また同時に、現在抱えている問題を解決する効果的な策がないと言っていることを理解すべきだろう。よってこれは、特に下の立場の者にとっては、上位者の無策を示す故事成語である。
したがってこの言葉は、あくまで自分を戒めるためだけに用いるのが正しいと言えるだろう。
由来:
時代は紀元前6世紀、呉王に闔閭が君臨していた時代に遡る。
BC509年、呉の大夫伍子胥は闔閭とともに楚へ侵攻し、その首都・郢を蹂躙した。このとき伍子胥はすでに死した楚王の墓を暴き、その死体を鞭打った(『死者に鞭打つ』を参照)。だがこの間に呉国内は新興国家である越の侵入を受け、大いに荒らされていたのである。呉王である闔閭はこの報告を受け、伍子胥や孫武を楚に残し、自分は急いで国に帰った。
【呉王闔閭の遺言】
闔閭は国に戻り、その首都を荒らした越国の王(允常・いんじょう)を追い払い、どうにか混乱を治めました。しかしこのことを長く根に持った闔閭は、10年経ったのち、允常が死んで勾践(こうせん)がそのあとを継いだという情報を得ると、越国へ攻め入りました。越国内の混乱に乗じようというのです。
呉には将軍として孫武(孫子)や伍子胥がいました。これに対し、越には范蠡(はんれい)や文種(ぶんしょう)が勾践の懐刀(ふところがたな)として控えていました。
孫武と伍子胥は呉が楚を攻撃したときには大変な活躍を見せたものの、越との戦いの際には著しく精彩を欠いています。それまでの活躍がまるで嘘であるかのように史書には登場せず、存在そのものを疑わせると言ってもいいような状況です。一説には、(伍子胥はともかく)孫子は実在しないと言われているのも頷けます。なぜかというと、孫子についてはそれっきり史書に記述がないからです。不思議なことですね。
やや話が逸れましたが、越王勾践は、このとき范蠡が提唱した作戦を実行したのでした。囚人たちに命じ、これを三班に分けて呉軍の前に並ばせ、大声で呉への恩義を叫ばせたうえで、いきなり自害させたのです。その様子の異様さに気を取られてしまった呉軍は、越軍に攻められ、敗れました。
呉王闔閭もこのとき戦い、指に矢傷を負いました。呉軍は七里の後退を余儀なくされたのですが、そのとき闔閭は指の傷を膿ませてしまい、それが致命傷となってしまいます。いまで言う「破傷風」です。
臨終にあたって闔閭は太子夫差を次の王に立てました。そこで彼は言い残します。
「爾而忘句踐殺汝父乎(汝、勾践が汝の父を殺したことを忘れるな!)」
夫差はこれに答えて言います。
「不敢!(どうして忘れることができましょうか)」
(原文はいずれも司馬遷著「史記」呉太伯世家より)
【呉王夫差の復讐】
新たに呉王となった夫差は、越への復讐を片時も忘れませんでした。以前と同じように伍子胥が輔佐をしたほか、太宰として伯嚭(はくひ)を迎え、国内体制を整えたほか、自らを精神的に追い込みます。
これについては元代初期の人物である曾先之(そうせんし)による著作「十八史略」に詳細な記述が見られます。
「夫差志復讎。朝夕臥薪中、出入使人呼曰、『夫差而忘越人之殺而父邪』(夫差、讎〈あだ〉を復せんと志す。朝夕薪の中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く『夫差、なんじ越人がなんじの父を殺せしを忘れたるか』と)
夫差は即位の二年目になると、精兵をことごとく繰り出して越を伐ち、夫椒山(ふしょうざん)でこれを打ち負かしました。先王である闔閭の仇討ちに成功したのです。この結果、越王勾践は捕らえられ、その妻とともに夫差の奴隷となったのでした。
【会稽の恥】
戦いに敗れた形の勾践でしたが、実は即座に夫差の奴隷になったわけではありませんでした。もともとこのときの戦いは、呉が望んで起こしたものではなく、越の側が仕掛けたものだったのです。それも勾践の独断によるものでした。戦いを起こすにあたって、宰相范蠡は勾践を諫めています。
が、勾践はそれを聞き入れずに戦い、その挙げ句に敗れてしまいました。
会稽山に立てこもり、「どうすればよいか」と尋ねた勾践に対して、范蠡は答えます。
「而身與之市(まずはご自身の身を差し出して、あとのことはそれからお考えになりますように)」
この後、勾践は長々と配下の人物たちと問答を重ねます。迷いに迷ったというわけですが、最終的には(しぶしぶ)夫差のもとに投降することを承諾しました。
夫差の前で頭を下げた勾践でしたが、呉の大夫伍子胥は彼を殺せと言います。しかし夫差はこれに応じませんでした。なぜかと言えば、すでに越の范蠡や文種らが、呉の太宰伯嚭が貪欲な人物であることに目を付け、これに賄賂を贈っていたのです。夫差は伯嚭の勧めに応じ、勾践とその妻に「箒」を持たせることとしました。これはいわゆる「掃除役」のことであり、すなわち「奴隷」を示します。
驚くことに、このとき宰相范蠡は、自らも進んで夫差の奴隷となったと言います。彼らは地下の石室に閉じ込められました。勾践はふんどし一丁に頭巾をかぶり、呉王のために草を切り刻んで馬の餌を作り続けました。勾践の妻は、ひたすら水を汲み、掃除をしました。そんな日々が3年も続きましたが、彼らは顔に怨みを示さなかったそうです。表面的には、実に模範的な奴隷だったのです。
ところでこのとき、呉王夫差はやや体調を崩していました。それが3ヶ月になろうとしたとき、越王勾践は石室の中で范蠡を召して問いかけました。万が一夫差に死なれるようなことがあっては、自分たちは次の王によって殺されるのではないか、だから夫差には長生きしてほしい、と勾践は考えていたのです。
これに対し范蠡は、夫差の病気はいずれ癒えるものであり、心配はいらないと答えました。しかし心証をよくしたいのであれば、勾践自ら夫差を見舞いたいと申し出て、彼に「呉王のそれは死ぬような病気ではない」と告げれば効果的だ、と勧めたのです。この際、范蠡が勾践に勧めた策が、次のようなものでした。
「得見,因求其糞而嘗之,觀其顏色,當拜賀焉(呉王にお会いできたら、彼の糞便を求め、それを嘗め、顔色をうかがい、拝礼して祝うべきです)」
(原文:趙嘩著「呉越春秋」下巻 第七 勾践入臣外伝より)
果たして勾践は夫差の糞便を嘗め、その味が苦かったのであなたは健康だと告げました。夫差はこれに感動し、「あなたは仁者である」と讃え、勾践らを石室から解放したのです。彼らには呉国内にある宮殿の一室が与えられました。
【夫差の慢心】
呉王夫差はすっかり安心していました。なにせ自分の健康の度合いを測るため、ライバルと思っていた越王勾践は自分の糞を嘗めることまでしたのです。もはや彼に復讐の心などない、と夫差が思ったとしても仕方のないことでしょう。話によると、勾践はその行為のために口に病を患った、と……。
そこまでしてくれるのであれば、勾践には今までとは逆に賓客として扱うべき価値があるのではないか、と夫差は考えました。その結果として、夫差は呉国内の群臣全員に、越王をもてなすための酒宴に参加せよ、と命じるに至ります。
しかし伍子胥だけはこれに応じませんでした。そこで伯嚭は酒宴の席で伍子胥を批判し、夫差はこれに賛意を示しました。夫差と伍子胥のそれまでの主従関係は、この事件をきっかけにほころびが生じたのです。
伍子胥はことあるごとに、勾践に気を許してはならない、あれは復讐心を隠すための擬態なのだと主張します。しかし結果的にこの伍子胥の主張に反発する形で、夫差は勾践の釈放を決めてしまいました。
その後、勾践は国に帰り、我と我が身を苦しめて復讐の思いを焦がし、胆をそばに置いて、座臥するたびに仰いで胆を嘗め、「なんじは会稽の恥を忘れるのか」と自らに問い続けました。
(原文:「吳既赦越,越王句踐反國,乃苦身焦思,置膽於坐,坐臥即仰膽,飲食亦嘗膽也。曰『女忘會稽之恥邪?』……史記「越王勾践世家」より)
その一方、呉王夫差は伯嚭との結びつきを重視するようになり、先王以来の重臣であった伍子胥の諫言をまるで聞かなくなります。伍子胥の方でもそれに危機を感じたのか、使者として訪れた斉国の大夫に、自分の息子を預けてしまいました。これを裏切りと感じて怒った夫差は、伍子胥に「属鏤の剣(しょくるのけん)」を贈りました。この剣で自害せよ、と言うのです。
怒りに震えた伍子胥は最後に言い残します。
「必取吾眼置吳東門,以觀越兵入也!(必ず我が眼をえぐって呉の東門の上に置け。その眼で越兵が入城するさまを見届けてやる!)」
原文:「史記」越王勾践世家より
伍子胥は感情こそ激しい男でしたが、本当の意味での忠臣でした。それがこのような最期を迎えたとなれば、呉国の命運は尽きたと考えるべきでしょう。ただ、その事実に夫差は気付かなかったのです。
伍子胥の死から四年後、夫差は大陸の覇者として諸国を従えようと宋国の黄池(地名)に大軍を率いて出かけました。斉や秦、あるいは晋、楚などの諸侯たちに、自分がリーダーであることを認めさせようと会合を開いたのです。
しかし、夫差がリーダー気取りでいるうちに、呉国内は勾践によって占領されてしまいました。夫差は留守を狙われたのです。ですがこのときは勾践の温情的な判断によって、呉は滅亡を免れました。
それでも夫差は対外出兵をやめようとせず、国力は戦乱によって大きく削がれてしまいます。すでに国内に精兵はなく、民も疲弊しきったところを勾践は再び伐ちました。これによって夫差は捕らわれ、命乞いをする羽目になります。宰相范蠡は殺すべきだと主張しましたが、勾践は自分の経験もあってか、命だけは許そうとしました。彼は夫差に対して「百戸の君としよう」と提案します。
結果的に夫差はこれで観念したようです。
「吾老矣,不能事君王(私は老いました。今さら君王に仕えることもできますまい)」
「吾無面以見子胥也(私は、伍子胥にあわす顔がない)」
そう言って夫差は自害しました。
これによって呉は滅亡したのです。
いかがだったでしょうか。最終回というだけあって、長かったですね。なんにせよ、呉越の攻防は越の勝利に終わったのです。
私個人としては勾践が「胆を嘗める」逸話よりも、夫差の「糞便を嘗めた」という話の方が好きです。しかも勾践はこれによって自分も口を患ってしまいました。凄まじすぎる逸話ですね。しかしこっちの方が好きだとは、相変わらず趣味が悪い。
ですがこの糞便の逸話が故事成語とならなかった理由は、「史記」に載っていないからだと思われます。「呉越春秋」は後漢初期の書物であり、若干小説的な書物です。このため純粋な史書としては評価されないところがあるようなので、その特徴的な逸話があまり後世に広がらなかった理由は、そのあたりにあるのかもしれません。
いっぽうの夫差の逸話「臥薪」についてですが、こちらもやはり「史記」には記載がありません。上述の通り記載は「十八史略」で、こちらは南宋時代にわかりやすく作られた子供向けの歴史読本です。ですがそのため広く流布したのだと言えます。
余談ではありますが、越によって滅ぼされた呉の残党は、海を渡って日本人になったという説があります(あくまで説です。異論は多くあります)。日本の民族衣装のことを「御服」ではなく「呉服」と称するのはこのためだとされ、まことしやかに言われたりもします。ただ「呉」という国は、かなり時代の下った三国時代にも存在し、やはり敗れた孫権率いる呉国の残党が海を渡って日本人の祖となったという説もあるにはあるのです。
日本の社会が縄文時代から弥生時代へと移り変わり、農耕が広まるのもこのような背景があったのかもしれませんね(あくまで可能性です)。政治的に微妙な問題かもしれませんが、私としてはそのようなことと捉えずに、単なるロマンとして話題にできる時代になってほしいと思うばかりです。
最後までお読みくださいましてありがとうございました。冒頭でご案内しましたように、特別な事情でもない限り、投降は今回が最後となります。しばらくアカウント自体は残しておくつもりですので、過去の記事をご覧になりたい方は以下のマガジンを参照してください。
「役に立たない」と称して始めさせていただいたこのシリーズですが、もちろん本心ではありません(笑)。歴史については専門で学んだ私ですので、その本当の意味については理解しているつもりです。皆さまにもぜひ深読みしていただくことをお勧めいたします。
では、これまでお付き合いいただきましてありがとうございました。特に毎回ご支援いただいた皆さまには、ここで深くお礼を捧げさせていただきます。
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