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【ためになるコラム】故事成語辞典:その18「鶏口牛後」の巻

 試行錯誤の末、またタイトル画像を変更させいただきました。これまでのものは悪趣味以外の何物でもありませんでしたが、ようやく品のあるものとなりました。
 これでも本棚に収まっているのが洋書ばかりだということに満足はしていません。現状に妥協したというところです。
 というのも、デザインツールのテンプレートにはやたらフェミニンかつオーガニックなものが多く、どれも私の感覚には合いません。と言うか、記事の内容と合わない……。

 記事の内容といえば、どうしても故事成語の話をすると中国の古典に準拠する内容となりますが、これをもって私が中国のシンパだと見做されたりするのも困ります。私は中国共産党のやり口が大嫌いです。彼らは長く尊重されてきた孔子や孟子の教えを排除するとまでは行かずとも否定しています。それこそ彼らの目指すものは孔子や孟子が否定した「覇道」です。その一方で各国にぬけぬけと「孔子学院」なんかを設立したりする姿勢には、彼らの「ご都合主義」を感じます。自分たちが正しくその教えを守っていないくせに……。香港や台湾の方々、頑張って欲しいです。

 さらに内容について言えば、人の生き死にについての話を軽々しくしてほしくない、という意見もあるかと思います。ただひとことだけ言わせてもらえれば、日本人でも海外の人でも……現在に生きる私たちは、過去のそうした争いに勝ち抜いた人々の子孫なのです。厳密に言えば違うことはあきらかですが(敗者の子孫も中にはいる、という意味)、ざっくり言えば、そのことは間違いありません。私たちが今この世に生まれ、毎日を楽しく生きるに至るまでに、人類は2000年以上にわたって淘汰しあってきたのです。そのことは胸に刻んでおくべきでしょう。

 もちろんそのような時代に逆戻りさせるようなことは、あってはなりません。そのためにはやはり、地道な教育が重要なのです。過去の出来事を正しく理解し、繰り返さないためには「学問を通じてそれを自ら道徳に昇華できる」……そのような人物を育て上げるための教育が必要だと思います。過去の社会では、教育するかわりに、言うことを素直に聞けない者を殺してきたのです。
 が、私自身は、教育の具体的な方法がわかりません。そもそも私自身、根っからのちゃらんぽらんです。
 なので、どなたか頑張ってください(笑)。

 少し大げさな前説となりました。と、いうわけでこのコーナーは単なる雑学としてとらえていただきたいと思います。今回のテーマは「鶏口牛後」です。それでは始めさせていただきたいと思います。


【鶏口牛後(けいこうぎゅうご)】

意味:日本語として使用するためには、「鶏口となるも牛後となるなかれ」と、由来となった文章を含めた書き下し文として表現する必要があるだろう。四字熟語のままだと、人の生きる道として「鶏口」がよいのか、あるいは「牛後」がよいのかよくわからないが、このように書き下すと意味は明白である。
大きなものに巻かれるような生き方はするな」……弱者が意地をはって言いそうな台詞ではあるが、この感覚は万国共通であり、英語などでも似たようなことわざは複数存在する。

用法:主に高校や大学への進学時、あるいは就職活動の際など、人生の大きな節目で用いられることが多い。しかし、その意味するところが本当に人生において正しいのかは、誰にもわからない。
 高校に進学する際に、ランクをあえて一つ落として、そこでトップの成績を取る……成功すれば確かに勉学に励むモチベーションにはなるだろうし、実際に次のステップとして、よりレベルの高い大学へ進むための近道となろうことは充分想像できる。
 しかしながら以下のことも注意していただきたい。……1ランク下の高校には、やはり1ランク下の生徒たちが多く集まるのである。もともと上位の高校に進学する実力のある生徒が、彼らと生活を共にすることとなれば、それこそ集団に巻き込まれて彼らと同化してしまうこともありうることだ(朱に交われば赤くなる)。
 差別的な言い方かもしれないが、小集団の中でトップの座を維持するためには、周囲に迎合せず、自分を見失わずにいることが重要だ。

由来:「鶏口牛後」という言葉は、司馬遷による歴史書「史記」蘇秦列伝の中にある。蘇秦はこの史書に残る台詞の中で、「ことわざに『鶏口牛後』と言うではありませんか」などという表現をしており、すでに彼の生きた時代には多用されていたものと思われる。しかし、実際に記録として書面に残されたのは、上記の史書が初めてである。

蘇秦の生きた中国戦国時代の勢力図。当時は秦が最強国でした。漫画「キングダム」は読んでもいないしアニメも見てもいませんが、その少し前の時代です。なお李信と嬴政はテレビの予告画像にあるような、親しく「グータッチ」するような間柄では絶対にありません(笑)。

解説蘇秦とは紀元前300年頃に生きた弁論家です。高校で世界史を学んだ方には「縦横家」の代表的人物として習ったご記憶があるかと思います。
 縦横学がどのようなものかを説明する前に、蘇秦その人がどのような人物だったかを説明させていただきたいと思います。

 蘇秦は周の洛陽に生まれました。この当時の周やその首都の洛陽は室町時代における京都のような存在です。京都には朝廷があって、将軍や天皇がいて……天下の都ではありましたが、各地の大名勢力の方がそれを上回っており、実質的な権力はありませんでした。それと同じようなものです。

 蘇秦は洛陽でもとくに名家の生まれでもなく、家族はみな土地を耕して生計を得る農民でした。しかし彼だけは学問に興味を示し、東の斉国へ赴いて鬼谷(きこく)先生に学び、その後も各地を転々とした、といいます。
 兄や兄嫁、さらには蘇秦自身の妻さえも、そんな彼を馬鹿にしました。親戚たちは言います。

「周に生まれた者なんて、土地に従って農業だの、細工仕事だのに励んで、二割の儲けを得ることが務めなのさ。それをあんたときたら、本業を放り出して口先だけでどうにかしようとするんだもの。貧乏なのは当たり前だよ」

蘇秦

 原典となる史記・蘇秦列伝には以下のように示されています。
「周人之俗,治產業,力工商,逐什二以為務。今子釋本而事口舌,,不亦宜乎」
 思いっきり「困る」という文字が記されているのが印象的です。「困ったやつ」という意味でしょう。

 このように、蘇秦とは、せっかく学問を修めてもそれを生かす場がない、そんな人物でした。そういう視点で見ると、非常に親近感がわくと思います。

 彼はそれでも学問を捨てませんでしたが、悶々とした日々を過ごします。

「士たる者が書物の読み方などをさんざん習ったところで、名誉を得ない限り、なんの役に立つものか」などと思った。
……驚くことに司馬遷は蘇秦の内面における心理までも描写しています。このあたりがそんじょそこらの史書とは違うところです。「史記」には非常に物語性があるのです。

 しかし蘇秦はその後、「周書陰符」なる、大昔に太公望呂尚という人物が残した書物を目にします。彼はそれをまる一年かけて研究し、やがて「揣摩(しま)の術」として昇華させました。「揣摩」とは君主の心を見抜き、それを抑えたり、持ち上げたりすることで、思いのままに操る術、だとされます。後世になって、これが縦横学の基本だと定義されたようです。

 思い立った蘇秦は、当時の覇権国であった秦へと赴き、覇権を完成させて天下を治めるための提言を行いました。しかしこのときの秦は法家の商鞅を誅殺したばかりのときで、弁舌の士を信用したがらなかったと言います。秦王は蘇秦の策には乗らず……結果的に彼の就職活動は失敗に終わりました。

 彼はそこであきらめずに趙へ赴きました。しかしときの宰相に疎まれ、さらに燕国へと赴きます。彼の長広舌が存分に発揮されるようになったのは、このあたりからです。

 だいたい彼の主張は、いつもこんな感じです。
「燕の兵はとても強い! 殿さまは名君であり、民も精強です! 国は険阻な山や渓谷に守られて、秦が攻めてきても心配ありません!」
 などと相手を安心させるところから始めます。しかしその後で彼は掌を返すがの如く、相手の不安を煽るのです。

「しかし実際に燕の国がこれまで安泰だった理由は、隣りの趙国が秦と戦ってくれていたからに過ぎません。趙が戦ってくれなければ、燕などとっくの昔に滅んでいたことでしょう」
 これは確かに事実なのです。そこで蘇秦は提案をします。

「よって、貴国は趙国と縦の同盟を結びぶべきでしょう。また、そのほかの国々とも盟約を結びなされ」
 燕の君主はこれをもっともだ、としました。「」の盟約とは、原文で「」です。こうして「合従(がっしょう)」という言葉が生まれました。

 その後蘇秦は斉や楚、韓あるいは魏に赴いて同じように説得しました。まずは君主をこれでもか、というほど持ち上げ、そのあとに不安を煽ります。諸国の君主は彼の弁舌に思うように踊らされ、ついに「合従策」は完成したのです。

 長くなりましたが、「鶏口牛後」という言葉は、彼が韓を訪れ、その弁舌を振るったときの記録に残されています。

「大王が秦国にお仕えなされます以上は、秦は必ず宜陽と成皋の二城をほしいと言うでしょう。今年それを彼らに差し出せば、来年にはまた違う土地を割譲せよと言うでしょう。……(中略)……下世話にも『鶏の口となるとも、牛の後(しっぽ)にはなるな』と申します。西に向かって手を合わせ、秦の奴隷となることは、牛の尻尾となることと同じでございます

 こうして蘇秦は強国秦に対抗すべく残りの6カ国をすべて同盟関係に置くことに成功しました。そして彼自身が六カ国同盟の総長となり、宰相を務めたのです。これによって、彼は富貴となりました。周王は蘇秦を謹んで出迎え、以前彼のことを馬鹿にした家族たちはみな畏まってしまいました。

 そのうちの兄嫁に蘇秦は語りかけます。
「以前はあんなに威張っていたのに、どうして今はこんなに丁寧にしてくださるのですか」

 兄嫁は答えました。
「あなた様の位が高く、お金持ちでいらっしゃいますから、ですよ」

 蘇秦はこの答えに溜息をつきました。
「昔も今も、私という人間に変わりはない。親戚たちは、富貴であれば尊び、貧賤であれば侮る。まして他人ならばなおさらだ」

 さらに言います。
「もし、この俺が以前から洛陽周辺に多くの田畑を持つような金持ちだったら、こうして宰相の印璽を腰に提げることはできなかっただろう」
 彼は貧しさこそが自身の原動力だった、と言うのでした。

 このあと、蘇秦は自分の面倒を見たすべての人たちに、ひとしく金銭を配ったといいます。

 しかし蘇秦が維持した六カ国の同盟関係は十五年ほどで崩壊しました。彼が外交上の必要から国外へ出かけたりすると、そのたびに各国の国情が揺らぐのです。そのうち蘇秦は、「どこへ行っても口先だけで、国そのものを売る男だ、そのうち乱を起こすに違いない」などと噂されるようになり、最後には斉の地で命を落としました。


いかがだったでしょうか。相変わらず長いですね。しかも肝心の鶏口牛後については、あっさりとしたものでした(笑)。まあ、最初に使われたときの話として覚えておけば、話のタネになるとは思います。

蘇秦はいかにも中国にいそうな人物で(笑)、記録を見ても本当に口が達者です。しかし私個人の印象としては、彼は決して口先だけの人物ではありません。状況に合わせた綱渡りのような人生でしたが…六カ国の君主たちは、彼を信用して、同盟の柱としました。たった15年の間だけでしたが、彼が戦争を止めたことは事実なのです。


では、今回も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
次回もお楽しみに。

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