【ためになる?コラム】故事成語辞典:その28「背水の陣」の巻
今回を含め、あと3回で終了の予定となっています。特に気負わず、淡々と記事を進めて参りたいと思います。もはやこちらから営業活動的な行動はまったくしておりませんので、スキしてくださいなどと言うつもりはありません。記事の内容に関わりなく、お返ししたり、されたりとかは、これまでとても自分にとっては重荷で、心苦しく思っていましたので……。
さて「背水の陣」という故事成語についてですが、こちらは非常にポピュラーな単語です。意味するところが明確なため、もはや故事に由来するという事実さえ知らない人も多いのではないでしょうか。
その語感の格好良さは言うまでもないのですが、しかしこの語の由来となった故事は、語感以上に劇的なのです。だからこそ昔の人はこの事実を言い伝え、その言い伝えが日本にも渡ってきて……今に至っているわけなのですが、メジャーな故事成語は、由来自体が「物語」として多くの人々に受け入れられてきた、そういうことなのです。だからこそ広く定着していると言うべきでしょう。
今回はその由来となった「物語」について、お話ししたいと思います。
【背水の陣(はいすいのじん)】
意味:
川を背にした陣立てのこと。転じて、逃げ場がないことを覚悟した上で、ものごとに取り組むことのたとえ。
由来:
具体的に由来となった故事は、紀元前204年10月における「井陘(せいけい)の戦い」。井陘とは現在の河北省石家荘省井陘県で、その地名の由来は「井戸のような凹地に川が流れ込む」ことであったらしい。つまり井陘という地は、谷間に存在する盆地なのであった。
【戦いに至るまでの背景】
時代は秦が滅亡したあと、項羽率いる「楚」と劉邦率いる「漢」が覇権を争ったときです。しかしこのときの大陸には上記の二国だけではなく、まだ複数の勢力が存在していました。その主なものは魏・趙・斉・燕といったところでしょう。漢は強力な楚と戦うにあたって、これらの国々の動向を注視したのでした。項羽とは当代随一の剛勇を誇る人物で、そのため楚軍は非常に手強い相手でしたが、漢はあえて二正面作戦を用い、本隊が楚軍と対峙するなか、別働隊がその他の国々を制圧していくという案を用いたのです。
この作戦を立案した人物が、漢の軍師である張良子房です。一方本隊を率い、項羽と対峙する役目を実際に担ったのが、漢王劉邦です。そして別働隊を率い、他の諸国を一国ずつ制圧していったのが、大将軍韓信でした。
このとき韓信はすでに殷、韓、魏、代などの国々を破り、その勢力下に置いていました。そして趙と対戦することとなったのです。
【趙軍と対峙する】
韓信が率いる軍は、常勝軍ではあったものの、その性質として長距離の移動を余儀なくされるものであったため、兵数は多くありませんでした。数万と号してはいましたが、実際には二万か三万に過ぎなかった、と言われています。対する趙軍は二十万から三十万の兵数を用意していました。それを統括していたのは、成安君陳余(ちんよ)という人物です。
陳余は、趙王歇(『けつ』・『あつ』とも)を擁し、韓信率いる漢軍を迎え撃とうとします。彼は戦場を難所である井陘に設定し、そこに軍塁を築かせ、万全の態勢を整えたといいます。しかしこのとき趙の将軍である広武君李左車は、陳余の戦法に疑問を抱き、提言しました。
「井陘の隘路は、車は二台並んで通れず、騎馬は隊を組んで行けません。行程は数百里ございます。……(中略)……どうか、我が君には奇襲隊として私に三万の兵をお貸し下さい。間道づたいに進んで彼らの輜重部隊を分断いたしましょう」
井陘の道は、先に掲げた画像の通り、非常に狭いのです。そこを通ろうとする軍隊の列は縦に長く延びる……李左車は伏兵を用いてそれを横から討って、分断しようと言うのでした。
しかし陳余はこの提言を退けます。韓信の軍は数万と号しているが、実際には数千に過ぎまい、千里の道をはるばるやって来て、もう疲れ果てているだろう、この程度の敵をまともに退けることもできないようでは、諸国はわしのことを臆病だと思い、我が国に侵攻することをなんとも思うまい……要は中途半端な勝ち方だと諸国に舐められると言うのです。陳余の言い分は、もっともらしいものでした。この時代の戦争とは、単に勝つだけではなく、勝ち方にもその姿勢が問われるところが確かにあるのです。
ところが韓信の優れていたところは、この情報を事前に仕入れたところにあります。彼は敵軍中に間諜を放ち、陳余と李左車の間に交わされたこの会話の内容を詳細に知ることができたのでした。
この情報を仕入れた韓信は、柄にもなく「大喜び」した、と司馬遷は記しています(『則大喜』……史記『淮陰侯列伝』より)。
古代の戦争とはいえ、「情報」というものがいかに大事か……それを感じさせるエピソードですね。ちなみに田中芳樹先生は『銀河英雄伝説』の中でこのエピソードから着想を得て、敵の情報を得て喜んだヤン・ウェンリーにユリアンとともに踊らせています。ヤンのモデルは韓信といっても差し支えないでしょう。なおヤンのライバルであるラインハルト・ミューゼルの生い立ちに関するエピソードには、匈奴討伐に成功した衛青将軍に田中先生は着想を得られております。
【朝飯前に勝負は決する】
話が脇に逸れましたが、情報を得た韓信はここから独創的な戦略を描きます。もともと兵数において趙軍に大きく劣っているので、情報を得ただけでは勝てません。この時点で韓信にわかっていることは、戦場である井陘に至るまでに敵が現れることがない、そのことだけでした。彼はここでいくつかの策を用意します。
そのひとつとして、「2千名の軽騎兵による先行」が挙げられます。彼は夜中にこれを招集し、ひとりひとりに漢の赤い旗を持たせました。そして言うのです。
「趙軍は我が軍が逃走するのを見れば、きっと砦をがら空きにして我が軍を追撃してくるだろう。お前たちはその隙に趙の砦へ入り、その赤い旗を立てよ……趙の旗は、抜き取ってしまえ」
さらに韓信は兵に弁当(軽食)を配りました。
「朝のうちに趙を破ってから正式な食事をしよう」
将兵たちはみな、何をいいかげんな、と思ったが、口先では「承知しました」と答えたそうです。
そして彼自身は一万人の兵を率いて、川を背にして陣構えしました。趙の兵たちはその様子を見て、みな大笑いしたといいます。
いわく、「韓信は兵法を知らない」。
韓信は兵を率いて趙軍と対峙しましたが、しばらく戦うと川岸まで自軍を後退させました。前方からは趙軍が押し寄せ、後方は川です。ここで進退窮まった漢の兵たちは、必死で戦いました。
しかし韓信は、わざとそうさせたのです。
もう一息で漢軍を川に落とすことができると考えた陳余は、ここで全軍を投入することを決め、砦に残っていた兵たちに出撃を命じるに至りました。つまり、韓信は敵も味方も欺いたのです。
ここで砦はがら空きになりました。韓信の目論見通りです。あらかじめ先行を命じられていた2千の軽騎兵たちは、この瞬間に砦に入り、趙の旗を抜き取り、漢の赤い旗を立てました。
砦を占領された事実に趙の兵士たちは愕然としました。彼らは趙王や指揮官である陳余らがすべて捕らえられたものと思いこみ、逃走を始めました。韓信はこの機を逃さず、川岸から兵を前進させます。また占領した砦からは漢の軽騎兵たちが出撃し、逃げ惑う趙兵たちを挟み撃ちにしたのです。
この戦いで成安君陳余は斬り殺され、趙王歇は生け捕りとなりました。広武君李左車も捕らえられましたが、彼はその先見の明を韓信に高く評価されて、縛めを解かれます。
これについては、以下に記しましたので参照して下さい。
低評価ですね(笑)。
なお、韓信がどのような経緯で漢の将軍になったかは以下を参照して下さい。これもひどく低評価です。
私が韓信をテーマにすると、ひどく低評価なのがものすごく気になるのですが、記事の内容はいたってまともです。どうか先入観なく、ごらんいただきたいものです(笑)。
この戦いのあと、予告通り韓信は兵たちと食事を共にしました。
その際、彼は兵たちの質問に答えます。
(兵というものは)「死地に陥れられてはじめて生き、亡地に置かれてはじめて存する」
……『孫子』にある言葉ですが、彼はこの言葉を生かした、と言うのです。しかし彼はその一方で以下のようにも言います。
「だが私は、日ごろから将兵たちの信頼を得ていたわけではない」
「これでは町人を駆り立てて戦争をさせることと同じだ」
「だから私は君たちをあえて死地に置き、ひとりひとりが進んで戦うようにしなければならなかった」
「もし生きる余地を与えれば、みな逃げ出したに違いない」
少し冷酷な言葉のようにも聞こえますが、これを額面通り受け取ってはいけません。戦闘において、本当に「生きる余地」がなければ、軍は全滅してしまい、敗れるだけなのです。つまり韓信の頭の中には、最終的に自軍の兵が多く生き残り、戦いに勝つ様子が、あらかじめ描かれていたのでした。
彼は、言葉だけで「頑張れ」だとか、「大丈夫だ」とか言う精神論者ではありませんでした。それは、その後に彼がとった行動などを分析しても明らかです。
このように「背水の陣」とは、緻密な計算と、苦労して得ることのできた情報によって成立した作戦なのです。
「気合い」や「死ぬ気」があれば何でもできる、という用法で使用することは、極力避けましょう。
もう営業活動をしていませんので、こちらも低評価の記事に終わるのでしょうが、最後までお読み下さいましてありがとうございました。
ともかくもあと2話で終わりです。
過去記事をまとめたマガジンです。無理して見て頂く必要はありませんが、一応載せておきます。
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