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自己紹介

noteを始めて明日で1ヶ月になります。

そして明日は私と旦那の22年めの結婚記念日。

自己紹介をしていなかったので遅くなりましたがここでさせていただきます。

1971年早生まれ。東京の世田谷で生まれました。地方出身の両親と当時小さな冷凍機の会社がある建物のアパートの二階に住んでいました。

現代では晩婚化で珍しくないですが母は私を産んだとき30代半ばをとっくに過ぎていたので高齢出産といわれてました。

小学校の頃から人見知りで無口でしたが、歌番組だけは好きで山本リンダやピンクレディのふりまねを家でやって家族にだけはひょうきんな顔を見せていました。いわゆる内弁慶ですね。

中学時代は友達に恵まれたものの中学2年のときに不登校になりました。当時は「登校拒否」と呼ばれていました。今でもなぜ学校に行かなかったのかはっきりわかりません。先生に理不尽な場面で怒鳴られたり、授業がつまらなかったり理由はたくさんあったと思います。友達がしょっちゅう迎えにきてくれたおかげか1ヶ月後には学校に行けるようになりました。

高校は女子高でしたが学生生活の中で一番楽しかった記憶はあります。そこで生涯の親友といえる人に出会います。中学で勉強を怠っていた反動で、大学進学を目標に近所の図書館で猛勉強します。

大学では音楽のサークルに所属し今の伴侶に出会います。旦那とは学生時代はあいさつと少し言葉を交わす程度でした。

卒業してから学園祭の後輩達のライブに顔を出した後の飲み会で再会。付き合うことになり交際5年を経てゴールイン。

大学卒業後は金融関係の仕事に就きます。何せ小さい頃から人見知りで口下手なため接客は苦痛そのものでしたが、なんとか忍耐力で乗りきったようなものです。とにかくマニュアル等の改正が目まぐるしく必死についていきました。お客様のお金と人生が絡む仕事なのでトラブルも多く嫌な思いもたくさんしました。

31歳のとき長女が誕生します。私が躍起になって仕事をしていたため娘や旦那、双方の母には負担が大きかったと思います。比較的共働きの多い職場でした。基本負けず嫌いなのか産休育休合わせて5ヶ月で復帰。娘は生後4ヶ月で保育園に入園。そのためか初めて預けた日は保育士さんにすぐ抱かれても全く泣かず私の名残惜しいバイバイにそっぽを向け(笑)娘にとって充実した保育園ライフを過ごせたようです。

私自身は今まで四回腹痛で入院。一回めは尿路結石、後の三回は急性膵炎です。

最後に退院してから精密検査をした検査、今まで膵炎が起きていたのは「膵管癒合不全」が原因だと判明。人はお母さんのお腹にいるとき本来2本ある膵管が産道を抜けるまでに1本に癒合して生まれてくるらしいのです。それができていなかったため膵管が細く炎症が起きていたわけです。

そして私が27年勤務した職場を離れたわけ。私は40歳初めから汗をかきやすくなり体がいつもダルく動悸も激しかったので「これが更年期か」と思っていました。

その年は比較的家から近い職場に移ったこともあり、より落ち着いて仕事できると思っていたのですが、、、

窓口にいてもやたらイライラ、汗はだくだく、理不尽なクレームにさらにイライラ、汗だくだく、、、(エンドレス)常に頭がカッカカッカ血が昇るようで仕事に集中出来なくなってしまったのです。

同時期に父の入院が重なりこのまま私は仕事は続けられない、やめたい、その考えしか頭にない状態になりコロナが騒がれ出した2020年の初夏に発作的に上司に辞表を渡しました。

案の定上司に引き止められました。自社は比較的安定した会社であること、せめて年末のボーナスもらってからでもよいのでは、うちが嫌なら他に異動してもよい、時間短縮してパートでも等。

共に働く先輩には「休んでいいからせめて50歳になるまで待って勧奨退職した方が退職金多いよ」と。

勧奨退職するなら半年待てば出来たがとにかくこの場から離れたくて仕方がない気持ちが強く、無理やり「辞めさせてください!」と申し出ました。

今考えればやはり私はおかしかったのです。体の調子も良くなかったのですぐ近所の婦人科の病院に行き更年期の薬をもらい念のため血液検査をしました。

「残念だけど退職の手続き進めるね。」上司にいわれ気持ちがスッキリした。しかしあんなに言いたいことが言えない引っ込み思案な自分が人を遮ってまで自分の意見を言い通すことは今まで一度もなかったのに。

後日、病院に行き年齢的にも更年期ではあるが『甲状腺機能亢進症』っていう病気の可能性がある、と先生に言われました。

残りの有休を取った後9月に約27年勤務した職場を離れました。私はそのときなぜか別の世界を知りたい、と思ってしまったのです。お金を扱ったり接客をしなくていい仕事。デパートの惣菜の工場に勤めようと思い立ったのです。それが人生の過ち?でした。

まるで軍隊のように怒号が飛び交い、少しの間違いも許さない古株のおばさんたちの世界。最初は何もかも新鮮で働いただけ給料がもらえる合理的な職場だと思っていました。

以前の職場は年功序列で給料が決まります。例え仕事が出来なくても年数が経てばそれなりの給料がもらえます。自分より明らかに仕事の量が少ない、成果を上げていない先輩の方が給料が高いのはなんとも言えない気持ちです。

私はパートの中でも短時間だったのでまだマシでした。ほぼフルタイムのパートさんが12時間以上の勤務をしている実情を知りこれがいわゆるブラック企業ってやつかと実感。

すごくハードでしたがパートさんの中でも優しい人はもちろんいて互いに励まし合い働いていました。しかしそのうちめまいというよりかは一瞬気が遠くなりすぐ元に戻るという症状に悩まされました。その頃50を越えてもいたので受けたことのない脳ドックを受けたところ、ほんのわずかな脳動脈瘤が見つかりました。

すぐ予防の手術をする必要はないものの体調がすぐれないことは確かなので辞めたい旨をチーフに相談。するともうシフト決まってるからもう少し待て、と言うのです。それを他のパートさんに伝えると、仕事よりあなたの体の方が大事!パートの私達が判断することじゃないが具合が悪いまま働くのは間違っている、と私自身も叱咤されました。そして実際辞めるときにも事務の社員に有休全ては取得出来ないといわれ、それはおかしい、と他のパートさんにも話しを通してもらいある程度妥協できる範囲で納得した後10ヶ月勤めた工場を無事に退職、、、

できたと思ったらやはり取得できると聞いていた有休分が消滅していました。話が違うじゃん!と今度は組合に直訴。時系列に事細かく退職に至るまでの経緯を伝え、やっとすべての有休を無事に消化してから辞めました。お金が惜しいというより私の中の正義が許せなかったのです。

いかに以前の職場はぬるま湯なホワイト企業でその後の職場がいかに地味な(上層は大手一流企業)ブラック工場なのかを目の当たりにしました。

工場に勤めている間、私の父が亡くなりその4ヶ月後に旦那の父が亡くなりました。

今こうして文章を書く時間があるのも不器用ながらもがむしゃらに生きてきた経験のおかげなのかもしれません。








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