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40代膵臓がんサバイバーです [5]

〜前回のあらすじ〜
教授回診時の教授の表情と、聞き慣れない「すいとう」という単語から、自分の病名を告知前に知ることとなり、ショックを受ける。
最後の検査を終え、最終告知の月曜日へ…


運命の月曜日と金八先生

いよいよ運命の月曜日。当日のお昼頃、外科の先生の待つ部屋へ。
先生からは、膵臓癌であること、もしもファーター乳頭癌であれば、割と予後は良いが、現時点ではわからない…などの説明がありました。患部の絵を描きながら説明もしてくださいましたが、正直、内容は上の空でした。
そして、、、

「手術はどうしますか?」
「早ければ来週の月曜日です。もし次となると…一ヶ月後先になって、その頃にはもう、間に合うかわかりません。」と、言われました。

「お願いします」と、即答で返事をしました。
ここでウジウジと悩んでいたら、自分の命の時間を伸ばすチャンスを永遠に失いかねないかもしれないと、本能的に感じたからです。
また、思ってもみない形でしたが、事前に病名を知っていたのも良かったのだと思います。これがもし当日知らされていたら、この大きなチャンスを、混乱で逃していた可能性も十分にあるからです。

この時、自分の頭の中ではなぜか『3年B組金八先生』の「腐ったミカンの方程式」のことがグルグル回っていて、”腐ったものは切るしかない”と、ひたすらにループしていました。

どうしてこんな人生最大のピンチに、なぜ、金八先生のフレーズが浮かぶという冗談みたいな展開になるのか。
凪のように妙に心は落ち着いていたものの、実は自分の限界を遥か超え、頭は相当混乱しているのだな…と、何か妙に納得している自分がいました。

そんな自分をよそに、先生はすぐさまどこかへ電話をかけ、手術に関して手短に話すと、電話を切りました。

「では、来週月曜日に入院です。」


一週間の中休み

入院に関する説明を受け、その足で義母の元へ向かいました。
自分の病気のこと、不甲斐ない自分で申し訳ないこと、しばらくご迷惑をおかけすることを、正直に話しました。
義母は優しい方ですので、一緒に涙を流して心配してくださっていました。
そして、入院中手伝うことがあれば何でも言ってね、と仰ってくださいました。

その後、会社にも連絡を入れて、翌日挨拶に。
社長と面談をして、同じ部署の皆さんに一通りご挨拶しました。仕事に穴を開け、ご迷惑をおかけするにも関わらず、励ましていただき、快く送り出して頂きました。ちなみにこの時点で、具体的な病名はごく一部の人にしか説明していませんでした。

そして、残った数日のうち、3日間は、親友が家に泊まりがけで遊びに来てくれました。急なことでしたが、有給を使って遊びに来てくれたのです。
大きい手術が控えているので遠出はできませんでしたが、親友のコーディネートで近場の日帰り小旅行へ連れて行ってもらいました。

慣れない入院と、今後の手術のことで塞ぎがちだった自分にとっては、とても良い気分転換になりました。
同時に、もしかしたらこれが最後の外出になるかも知れない、と、どこかで思ってしまう自分もいました。普段はそんなに写真を撮らない家族や友人が、シャッターを切っていると、「あぁ、自分は今まで、自分の写真をほとんど撮っていなかった、というか、避けていたな…」と、改めて気づかされたりもしました。

楽しんでいながらも、ここには半分の自分が居て、半分の自分は今までのこと、これからのことを考えているような、半透明のような気持ちで過ごしていました。

親友が帰って、ちょっともぬけの殻になった我が家。あとは家族でゆったりとした、いつもの時間を過ごしました。

そして、明日はいよいよ入院です。


つづく



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