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「自分らしく生きるためのルーツをたどる③」

照明が落とされた薄暗い診察室で
私はじっと自分の足元を見つめていた。

しだいに涙があふれてくる
泣くまいとしても、涙を止めることはできなかった。

うそだ

うそだ!

そんなの嘘だ!!

だって、だって…
いつも愛らしい笑顔を向けてくれるのに…

医師からの言葉が
全く頭に入ってこない

何を言われているのか
全く理解できない。

いや、理解はできていたのかもしれないが
自分に起きた事とは
にわかには信じられなかった。


「突然で驚かれましたよね」

と言われた気がするが
驚くも何も、まだ受け止められない。

自分の娘が病気だなんて…



<現実を突きつけられる>


次は女の子がいいな。

そんな思いが通じたのか、

「女の子ですよ」

助産師さんから言われた時は
半分麻酔が効いて朦朧としている中でも

「女の子、うれしい。」

と呟いていた。


娘は、順調に育っていると思っていた。

しかし、生後4ヶ月の集団検診で
医師から心雑音が聞こえると言われた。

大病院で診察を受けた結果、
娘が心臓病を患っている事が判明した。

「えっ?!」

「娘が?!」

衝撃の事実だった。

そして、冒頭のシーンになる。



考えてもいなかった。
自分の子供が病気を患っていたなんて。

妊娠中も出産後も、いままで誰も気づかなかった。

最近、確かに母乳もミルクの飲みも悪くなっているなぁ、
とは思っていた。

最初に診察を受けた病院では、
正式病名ではないが
単心室症(心臓から血液を送り出す主な心室が一つしかない疾患)と言われ、
その時測った酸素飽和度の数値は、70台

さぞ苦しかっただろう…

何も知らず、何も気づかず
育児に一生懸命になっていたつもりの自分が恨めしい。

さらに娘は、心臓が右にある「右胸心」であることもその時伝えられた。

いま思い出してもツライ現実を突きつけられた、忘れられない日になった。



<運命の先生との出会い>


娘には3つ上の兄がいる。
その当時、息子は幼稚園の年中さん。
甘えん坊の泣き虫さんだった。

息子の通っている幼稚園のママ友に、
偶然にも元看護師さんが数人いた。

そのうちの二人が、娘の異変に気づいていたのだ。
集団検診前にもちょっと気になるんだ、とは言われていた。

翌日、診断の結果を伝えると、やっぱりと納得し
その病院ではなく、きちんと診てくれるところを探そう!と
手を差し伸べてくれた。

不安で仕方なかった思いからの安堵か、
心から嬉しくて、涙がでた。
そして人目もはばからず
幼稚園の園庭で、ママたちに囲まれて大泣きした。

本当にありがたかった。

ありとあらゆるツテをたどって
いろんな大病院の先生と話をさせてもらい、
ついに!

「うちで診ましょう!」

と言ってくださる先生に出会えた。

たまたま別の病院にいらしていたその先生に
急遽アポをとってお会いすることができたのだ。
先生はすぐに病院に電話し、診察の予約までしてくださった。

その時、「この先生にお任せしよう!」と
直感が働いたとでもいうべきか、
迷うことなくお願いすることにした。

というより、すがるような思いだった。

「小児の循環器を担当しているので、僕が診ますよ」

と最終的にこの先生がすべて執刀してくださるのだが、
いまでも運命の出会いだったと思っている。

その出会いを導いてくれた友人たちには
本当に心から感謝している。



<入院、そして手術>


その後、先生のいる病院にすぐさま入院し
合計8つの病名が伝えられた。

初めて聞く病名ばかりで、頭が追いつかなかった。

難しい病名はここではあえて明記しないでおくが、(単に難しすぎるので💧)
要は、心臓が奇形であること。
心臓の房室の中核欠損で穴が開いているが、塞げば良いというレベルでは
到底ないということ。
房室の弁がきちんと形成できてない為、逆流しており、血液と酸素の循環がうまくいってないこと。
肺動脈に狭窄があり、心臓とは別に手術をしなければならないということ。
その他諸々である。

そのうちの一つが、
心臓を含め、内臓が全て鏡のように逆にある「完全内蔵逆位」であった。

2万人から3万人に一人、という「内蔵逆位」(数は正確ではないが)
心臓までもが右にある「右胸心」も稀な症状。

そして、いまは医学の発展とともに変わってきいていると思うが、生存率も低い。

ダブルパンチのような出来事だった。


近くに住む主人の叔母にも協力してもらい
家のことをすべてお願いして、
当初は泊まりがけで
娘とともに病院生活を送っていた。

途中からは、田舎の母にも上京してもらい、
娘を完全看護の病院にお任せし
朝は息子のためにお弁当を作って幼稚園まで送って行き、
その後、毎日夜の面会時間ギリギリまで娘に付き添った。

入退院を繰り返しながら、その生活を
最後の手術が終わるまで、続けることができた。

夜はクタクタだったはずだが
いま思えば、とんでもないパワーが私を後押ししてくれていたのだな、と思う。



初回の手術の時は
クリスチャンである母と一緒に、幼稚園に隣接した教会に足を運び
牧師さんとともに手術の無事を祈った。

心から祈れる場所があることが救いだった。


手術は計4回。

生後6ヶ月に初めての手術(BTシャント手術)
 ↓

生後11ヶ月に2度目の手術(グレン手術)
 ↓

1才5ヶ月になり、肺動脈狭窄の手術
 ↓

その2ヶ月半後、1才7ヶ月に
目標としていた一番大きな「フォンタン手術」という手術を行った。


一番長かった手術は、朝の8時に手術室に入って、ICUに到着したと告げられたのは夜の9時だったのを覚えている。

執刀は全て、運命の出会いをした心臓外科の小児担当の医師であった。

ただでさえ大変な手術に、内臓が逆転している娘のちいさい身体は
さらに難しく時間がかかるものだったらしい。
だからだろうか、手術が終わった後に拝見する先生のお顔は
いつもやり切った感がみなぎっていた✨



<驚きと気づき>


生後6ヶ月から2才になるまで、入退院を繰り返したが、
その時に驚いたことがいくつもあった。

娘が入院していた小児病棟は、心臓病の子供だけではないため、
いろんな病気の子供たちがたくさんいることを、私は初めて知ったのだ。

あまりにも無知で視野が狭かった自分が恥ずかしかった。

様々な病気と闘っている子供たちがいて、
それを一生懸命支え、治療、看護してくださる医師や看護師や
さまざまなスタッフの皆さんがいることを目の当たりにして、
感謝と感動を覚えた。

それに一番驚いたのは、付き添っているお母さんたちが明るいのだ!
たとえ寝たきりのお子さんのお母さんでさえも
みんな明るく輝いていた✨

きっと子供の頑張りと未来を信じる気持ちと
感謝の表れなのだろう、と思う。

本当に、尊敬すべき人たちがこの病棟にはたくさんいた。

娘の病気と入院、手術という出来事を通して、
いっきに自分の世界観が広がったのをこのとき感じることができた。

私を成長させてくれるために、この子を授けてくださったんだ!
と、心からそう思えた。

そして、神さまに感謝した✨



<その後>


あれから10年。
いま、娘は中学1年生。

親も病気であることを忘れるくらい、元気そうにみえる。

もちろん、定期的に検査には行っているし、毎日お薬は欠かせない。

それでも、あんな大手術をしたとは思えないほどである。

今後、下半身から肺動脈につないだ人工のパイプを交換するために
再手術は必要らしいが、いまは未定。

でもきっとその時が来ても、
この子なら大丈夫。

何たって神さまに守られている子だから。

愛されて生きて
愛されて育っている子だから。


私は信じている

今度もきっと乗り越えて
元気に成長してくれると。

そして、

大人になったとき
身体的に不可能と言われたことも
きっと越えてくれるような気もする。


私はそう信じている


この子なら、きっとできると。

神さまが導いてくださる

そんな気がするから。


それまでは、母娘で毎日バトルしながら、
見守りつつ、楽しく過ごせるといいな。

いつの日か訪れるであろう、試練のその時まで

どうか、どうか、神さま

娘がさまざまな困難を乗り越えて
私よりも長生きして
自分らしく幸せに生きていけますように✨

〜 完 〜

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