介護をしている全てのひとへ(番外編)

父のこと

 身内、しかも自分の父親のことを悪しざまに言うのは気が咎めますが、このコラムをつづっていくうえで、騒動の中心人物である父のことを書いておかなければならないと考えました。

 昭和10年代の生まれの父は、地元の有名進学高校を卒業し、大学に進学しましたが、結核を患い左肺の半分を失い、療養することになりました。その療養先で、准看護婦(現在は看護師)として働いていた母と出会い結婚しました。
 病気の療養に加え学生運動に傾倒していた父は就職に不利な条件が重なっていたらしいのですが、祖父のコネで地元有力企業の傍系会社に就職を果たしました。その後は祖父の後ろ盾もあり、しばらくサラリーマンとして順調にキャリアを重ねたらしいです。
 しかし、もともと自己中心的な性格の父は、人格を磨く努力や地味な仕事をコツコツと積み上げて立場を築く努力はしなかったと祖母から聞いています。祖父が他界してからは、父は職場での居場所を失い、会社を追われるように会社を辞めて独立開業しました。元来人気者願望が強かった父は、給料の大半を他人のために使っていましたから、ほとんど貯金がありませんでした。だから開業資金は相続した祖父の遺産と祖母の貯えに頼りました。
 当初はバブル経済の好況期であり、そこそこの商売はできていましたが、バブルが崩壊すると一気に商売は冷え込みました。それでも父は借金をしながらお金をばらまき続けました。相続した家屋敷や有価証券はすべて担保にしましたが、ついにお金が回らなくなり、結局4年で会社を清算し、家族はほとんどの財産を失いました。 
 母と私、そして祖母のわずかな貯金を使って、隣町に小さな家を購入しました。
 そこからは、母が家族の中心となって懸命に働きました。父のところに嫁ぐ前、母は看護師として誇りをもって仕事をしていましたが、「〇〇家の長男の嫁が外に働くなんて!」と言われて仕事を辞めさせられました。何十年も外の世界から隔絶されていた母ですが、母は昼は家事、夜は食品会社で夜勤し、夜中の2時ときには、朝4時まで働いて家計を支え続けました。
 食品工場のラインに入る時、鏡に映った白い作業着姿の自分を見て、涙が止まらなかったと母は話してくれました。 
 家族をそんな状態まで追い詰めた父は、相変わらず昔の仲間にいい格好をするために借金をし、きれいなお姉さんと話ができるお店に行きたいがために他人の保証人になるなどやりたい放題でした。
 数年後、母は縁あって介護施設で看護師としての職を得ることができましたが、その時父は「やりたい仕事ができて幸せだな」と母に向かて言い放ちました。この言葉を聞いた母は怒りで吐き気がしたと言っていました。
 兄弟の支援と母の収入で一家は低空飛行ながらしばらくは平穏に暮らすことができました。母は生前、それが人生で2番目に幸せな時間だったと言っていました。 
 数年後、銀行の保証協会から父が連帯保証人になっている借金が全く返済されていないという連絡がありました。父にそのことを問いただすと、「〇〇さんは迷惑をかけないと言っていた」と答えました。父はお金の用途はもちろん、その人の住所すら知りませんでした。書類に記された〇〇氏の住所に行ってみると、その人は住んでいないし、住んでいた形跡もないとのことでした。〇〇氏は初めから頭の中がお花畑の父を騙すつもりで父を連帯保証人にしたことがわかりました。保証協会に〇〇氏の現住所を問いただしましたが、「個人情報」と言われ教えてもらえませんでした。
 そんな折、母の体にがんが見つかりました。それでも父はちやほやされるためにお金を浪費しつづけました。
 父が会社を追われてからの4年間で、億単位のお金を浪費しました。もし、そのお金を家族のために使っていたら、家族はそれなりに暮らし、母と私は昼夜兼務で働く必要もなく、母も早く適切な治療を受けることができたのではないかと思います。
 父が全く無責任に保証した借金のおかげで、母は命をかけて守ろうとしたちいさな家は、再び他人の手に落ちてしまいました。
 母の日記には、母の悔しさが控えめに書かれています。

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