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文章を読むということ

私は、他人の書いた文章を読むことができない。

……と書くと「じゃあお前は読書もなにもできないのか」と言われてしまいそうだが、それは違う。私は「自分と同じ土俵で書かれた他者の文章を読むことができない」のである。

……これもなんだかイマイチしっくりこない。「自分と同じネタで他者が書いた文章があった場合、それを読むことができない」というふうな言い方がもっともしっくりくるだろうか。

例えば極端な話だが、小説を書く時のテーマとして他者と同じお題を出された場合、私は自分以外が書いた文章を読めない。もちろん、物理的に読めない訳ではない。ただ、他者が書いた文章と自分が書いた文章を比べて自己嫌悪に陥ることがわかっているので、どうしても読むことができないのだ。



私は以前、とある媒体で小咄を書いていたことがある。もちろん商業的なものでもなんでもなく、ただの趣味での執筆だったのだが。その話をとある人に見てもらった時あることを言われて、それから自分の文章に自信が持てなくなってしまった。

「あなたの文章は固い」

と、そう言われたのだ。実際問題、その瞬間まで私は自分の文章の特徴というものを理解できていなかった。ただ、そう言われてしまった原因にいくつか心当たりはあった。

私は昔からよく、海外作家の本を好んで読んでいた。以前の日記にもレイ・ブラッドベリやアガサ・クリスティー、フィリップ・K・ディックなど、その辺りの海外作家の名前が登場していたと思う。

そう、この堅苦しい文章はおそらくその海外作家の小説を読む習慣からきている。

私は英語のネイティブではないので、必然的に日本語に翻訳された小説を読むことになる。そして翻訳された文章というものは、往々にして型にはまった文章であるとは言えないだろうか。

別に、翻訳文を否定している訳ではない。決してそんなことはない。ただ、翻訳文独特の文体というか、そのようなものが私の身に染み付いてしまったという、それだけなのだ。

また、私は以前とある仕事で毎日報告書を書いていたことがあった。報告書には「いつ」「なにが」「どうして」「どうなった」という『事実』を『時系列順』に『正確』に書くスキルが求められた。

私は一年ほどその部署にいたが、結局赤ペン先生のお世話になりっぱなしで一度も文章を褒められることなく辞めることになってしまった。だがあの時に身につけたスキルが、おそらくは今も多少は、ほんの少しは影響しているのではないか。

そんな諸々のこともあって、私は今まであまり自分の書いた文章が好きではなかった。他者が秀逸な文章を書いていると「なぜ私はあんなふうに書けないのだろう」と考えてしまうのだ。

だが最近は、そんな心境に変化が現れた。noteではこの文章を読んでくれる方がいる。そして私の文章を読んでくれた方もたいていは、なにかの記事を書いている。私は時々だが、私の文章を読んでくれた方の記事を読みに行くことができるようになった。

まだまだ他者の文章と自分の書いた文章を比べて自己嫌悪に陥ることはあるが、それでも後学のために、また興味の赴くままに、これからはnoteを書いているたくさんの方々の文章を読んでみようと思う。

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