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高校近くのラーメン屋で

 自分は一人で生きていける。俺は誰の手を借りなくても大丈夫。こうした全能感が身体中を駆け巡る時期は誰にでもある。多くの人は思春期に。でも、そんなときに限って、学校の先生や親は「そんなのひとりよがりだ」と口を揃えて言う。全くその通りである。

 「自由」という観念がすでに行き届いた世界に生まれ落ちた現代の私たちにとって、「自由」とは享受するものであってもはや獲得するものではない。15歳にも満たぬ者が「自由」というその言葉から思考を始めれば、行き着く先はほとんど「なにをしてもいい」「全て自分の好きなようにしていい」という完全に「ひとりよがり」の答えだ。少し大人びた者は言う。自分が道端で突然殺されたりしないのは、自分が誰かを訳もなく殺したりしないからだと。要するに、自由の相互承認の考え方である。そう考えると、自由とは、すべてを自分の意のままにできるということではないことが分かる。

 自分のことは全部自分でできるから誰も助けない。「自分ですべてを解決できる」ということを前提として、誰の手も借りなければ「誰のことも助けない」という帰結を得る。非常に分かりやすい論理だ。しかし、前提が間違っている。こうした論理関係は見事なほど鮮やかに、自分が困っても誰も助けてくれないという論理へと反転する。

 そもそもヒトを表現するときには、人間とか、人類とか、いつも複数形ではなかったか。一人、自室で明るくない将来を案ずるときも、他人からの心無い言葉にひどく傷つくときも、「ちょっとメシ食いに行こうや」と言われれば、その声に引き寄せられるようにして、近くの店の扉を押す。別に盛大なお悩み相談会など開かなくてもいい。むしろないほうがいいときもある。ただいつもの会話が流れるだけで気が紛れるというものだ。

 思い返せば自分もそうやって助けられてきた。あまりにも事が重大だと、相手に負担がかかるような気がして、信頼していても意外と打ち明けられない。そうこうしているうちに、また別の友人が事情を察してメシに誘ってくれる。あれは高校の近くのラーメン屋だった。今になって思えば多分、他の友達から話には聞いていたのだろうが、話すこと話すこと、全部知らないと言って聞いてくれた。話せば気が楽になるのではないかとあいつなりに考えていたのだろうか。ラーメンをすすり終えて満腹になったころ、そいつが伝票を手に取って「出世払いでいいよ」と気前よくおごってくれた。いつも金がないと嘆いていたはずなのに。だから次こそは、自分がそいつに、いや本当はそいつにじゃなくてもいいのかもしれない、ラーメンでもコーヒーでもおごってみたいのである。あいつみたいにさりげなく「出世払いでいいよ」と言えるかどうかが最大の心配だ。


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