言葉にならない何か

私どうしたんだろう?最近内から溢れるものが多すぎていちいち言葉としてアウトプットしないと溺れそうになってしまう。普段あんまりこんなに出さないのに、今は出さないと何かが我慢できなくなる。笑 日記でもなくnoteにわざわざあえて書くのも自分としては謎でよく分かっていないけれど、後から答え合わせできるのかな。

ここ最近は、あまりに変化のスピードが早すぎて、昨日正解だと思ったことが今日はもはや違うと感じたり、午前中心地よかったことが夜にはもう別のことが心地よくなっていたりする。それは、ころころ変わりやすい、という話ではなくて。その瞬間瞬間の自分と世界と宇宙の、目に見えることと目に見えないこと様々を踏まえた上での、アンサーを生きているから、と言ってもいいのかな。

だからここ最近は、本当に色んな思考、思い込み、感情、癖そして記憶をもう必要ないね、と手放すことが心地よい。思考のパターンや感情のパターン。自分のオートマチックに働いている癖。それが本当に自分のためになっていないのなら、もう必要ない。要らない。

そして記憶さえも。良い幸せな記憶。生まれてくる前からのも含めて。あのときは私は幸せだった、とずっと固く握りしめていた遠い銀河の記憶。それすらも、手放す。

忘れないと誓った愛を、忘れることが愛。とどこかで読んだが、本当にそうかもしれない。

頑なに握りしめている限り、その記憶がもつ古いパターンや周波数は具現化し続ける。かつては、そのときの自分にとっては居心地がよく最高だったかもしれないけれど、私は今を生きている。

これまでの私と、ここからの私のデリケートな狭間にいる、今日の、今の、わたしは、本当に何が必要?何が大切?何にその意識の焦点を当てたいの?

そんなことを思ったのなら、大切に宝箱にしまっておいたものたちを、私は感謝と共にその手を放すのかもしれない。

💫


身体の奥の底の方に、小さな光の粒が生まれた。

そしてそれを取り巻くように、渦ができ始めた。ぐるぐる廻っている。螺旋の回転エネルギーが生まれ始めた。それはどんどん大きくなるだろう。

今のわたしは、その渦の真ん中、一点にある静かで沈黙が許されている領域にいる。

自分の外側に表れるさまざまな現象。情報。それに惑わされないところ。

もうすぐ始まる激動のお祭りの前に、そこの場所で静かに軸を整える。先月の夏至前から祭りの音頭はとられ、いつ頃終焉を迎えるのは分からない。けれど7月は激動のお祭りの第2のターニングポイント。それが近づいている。

お祭りは訳わからず、軽やかで楽しいもの。

だったら、その握りしめていた何かはもう要らない。

そんなことを感じる今。




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