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渡辺はま子 - 桑港のチャイナタウン - 1950

サンフランシスコを三本続けてしまいましたっっ 
はい…桑港=くわみなと、ではありません。桑港と書いてサンフランシスコと読みます。今ではその表記ないかな~ 
まあ、米国とか仏蘭西とか英吉利とか、そのような表記が名残とも言えますね。

明治の世、戦前以前の海外の国とか土地の表記。和製英語とか、カタカナ表記とかが生まれる前の話。

ええっと、私はロック大好き婆ですけど、懐メロも好きですよ。このあたりはやはり親の影響なんでしょうね。昭和というか、戦前のこうした歌もそれなりに聞いて育ってます。子供の頃は当時の歌を流す番組も多かったですし、二回り以上、年上のおねえさんおにいさんたちと一緒にカラオケに行くときは、歌ったりもしちゃいます。詳しくはないけど、そこそこ知ってるって感じかな。

で、渡辺はま子さん。
戦前戦後にかけての歌い手さんですね。横浜出身で、お爺様がアメリカ人なクォーター。ジャンルとしては流行歌になるのかな。でも、武蔵野音楽学校出ているから、クラシックの基礎はある方。歌手としてデビューされる前は、音楽教師をされていたそうです。

そして渡辺さんというと…

「支那の夜」1938

戦地の慰問曲ということで、背景を考えた時に現代では微妙なんですけど、音楽や歌には罪はないということで。ちなみに作詞は西条八十です。

現代だと支那って使えないんですよね、表記として。差別用語になっちゃうから。だから、カナ表記にされちゃう。

支那の竹の子なので支那竹と言う

「広東ブルース」1943

作曲は服部良一さんです。

「何日君再来」1940

元歌は、1937年に中国で作られた歌です。満州から持ち帰られて、渡辺さんが歌いました。

こんな感じで、日本(軍部)の国策としての、満州ヨイトコ的な五族協和のための、満州上げ的映画の主題歌をたくさん歌われたので、『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれていました。

「サヨンの鐘」1941

そして終戦を慰問先の天津で迎えたため、一年間の捕虜生活を余儀なくされた渡辺さん。収容所生活の間も、人々を慰めるためにずっと歌い続けていたそうです。

帰国後に結婚されて、花屋を営みながら歌手活動も継続。そんな中で生まれたヒット曲が、

「桑港のチャイナタウン」1950

私の場合、渡辺さんというと、この歌なんですよね。懐メロ番組では必ずテレビで歌われてたから。カラオケでは物真似wwさせていただきながら…扇子を持ち、翻す真似をしながら歌うのが、場を盛り上げるコツですwww

また、この歌はこのCMで替え歌に使われたので、戦後生まれの人でも聞いたことがある人いるかもです。

ミスドCM なつかCM 
サンフランシスコのチャイナタウンの飲茶

で、渡辺さんというとこの歌も忘れてはいけません。

「あゝモンテンルパの夜は更けて」1952

この歌は、フィリピンに収監されていた日本人戦犯が作詞作曲した曲で、渡辺さんがレコード化し、日本国政府の厚生省復員局と奔走して、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートを実現させ、フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの元首であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したとのこと。

ほとんど、まるまるウィキからの引用ですがっっ

不幸な戦争に利用されたり翻弄されたりもありますが、その映画の主題歌の競作もしくは、彼女主演の映画を主題歌を歌うなど、同様に戦争に翻弄され、二つの祖国を持って苦しまれた李香蘭さんとは、何ていいますか人生がダブるところもあったりします。

渡辺さんも、戦中は敵国であるアメリカの血が流れているということで、苦労をされたでしょうから。

その後、渡辺さんは東海林太郎さん(直立不動スタイルで有名)と日本の歌手たちの権利を守るために歌手協会を作り、戦後の日本の歌謡界の発展のためにたくさんの貢献をされました。

東海林太郎「名月赤城山」1939

20世紀から21世紀に変わろうという、ミレニアム前の1999年クリスマスの日に、その役を終えたかのように旅立たれたのでした。


他blogに書いたものを、訂正・加筆・リンク修正の上、こちらに再度マガジンとしてまとめてUPしています。

「My Favorites〜音楽のある風景」
 2021/02/24 掲載記事より転載


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