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落日後の平家~兵どもが夢のあと

ねずさんのお話はとても解りやすいので…

こちらのchannelからのファンです。最近はあんまし見てないけどっっ

いちおうご先祖に関することなので、嗅覚というか触角は働きますね。

過去のblogにも書いていますが、母方は祖父母両方の家系が、薩摩士族でした。ちなみに祖母の家の方が武家としては格上(祖母は結婚するまでお嬢様暮らしで家のこと一切しなくてもいい生活をしていた人だったので、かなりの金持ちだったらしい)。

とは言うものの、身分制度が廃止になったのは祖父の祖父の代なので、関係ないですけどね。で、祖父方が平家落人なわけです。壇ノ浦の合戦にて敗戦し、船で大隅半島は牛根という場所に26人が流れ着いて、その地に住み着き、村を作りました。で、下記の図だと解りにくいのですけど、村はなぜか平城京や平安京のように碁盤の目に区画されていたりするんですよ、面白いでしょう。

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それが約850年前ってことになるのかな<1184.4~5

元々は一族で京都・東山に住んでいたそうです。それが源氏との戦により京都の家から逃げて、壇ノ浦合戦にて敗れて船で南に流れて、錦江湾へと。桜島を目印にこの地にしたのかは解りませんけど。四国や北九州に逃げた人たち、離島、沖縄に逃げた人たち、様々だったようです。

もちろん、源氏の追手(残党狩り)は鹿児島にも及んだようですが、うちのご先祖様たちのことはたまたま島津氏が匿ってくれたのね。てなわけで、当然ながら島津家に仕えることになりました。

そして「八つ墓村」みたいな話があったりします。あっちは毛利氏と尼子氏の戦い(岡山県)で戦国時代の話ですけれど、こちらは鎌倉時代で「七人塚」と言う場所があったりする。

「屋島の戦」に続く長門での「壇ノ浦の戦」で源氏に敗れた平家は、四国や南九州の各地へ逃れ、平野家一族(平家水軍)もここ牛根辺田に落ちのび土着しました。源平合戦に勝利した後も源頼朝による平氏追討、平氏一族・平氏残党の探索は厳しく続きます。しばらくして山伏に姿を変えた源氏の追手7人が、平野家一族を暗殺にやってきますが、平野家随一の剣客が夜陰に乗じて追手7人を倒したと伝えられています。
水軍であった平野家は、操船術や造船術を持っていたことや南方諸島との貿易で得たものまた、地元でとれる焚き木やつばき油や蠟の原料(ハゼの木)を島津家に献上していたため武士の身分ではないものの名字、帯刀を許され、この地の有力者でした。
平野家ではこの7人の霊を慰めるため塚をつくり手厚く供養したそうです。後の世、この地に潜伏した宇喜多秀家公は、雨の日も雪の日も「七人塚」に日参し、手を合わせたと言われています。平野家では、この「七人塚」を代々管理し、昭和60(1985)年4月に氏神祭りと同時に「七人塚」を祭る行事が800年祭として盛大に執り行われました.
(現地説明板などより)

この話から察するに、うちの先祖は平野家一族すなわち平家水軍の一員だったということになる。けど、受け継がれた家宝は雅楽の楽器でもあったりするので、謎。それに水軍のくせにどうして、東山に住んでたの? 陸でなくて水辺ではないんかい??って思ったりするですよ。謎。

そして牛根城が職場wだったとのこと。でもって、平家落人は口が堅いということで、島津家の密命を受けることが多かったらしい(忍者かよ)。島津斉彬氏の時代には、潜水艦を作る密命を受けてたりしましたが、完成したのかどうなったのかは謎。まあ、水軍の子孫ということなら、なんか潜水艦作れと言われたのも納得。(そしてナリーには私もこき使われたと言う…謎)

あ、祖父苗字は平野さんでは無いです。だけど、たぶん元々の苗字から変えてます。追手をごまかす都合上。で、海というか、まあ、その辺りに関連する苗字だけど、この入り江についたことで付けたのだと思われる苗字です。

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そんなご先祖様の足取りが載っている郷土史の本。上記の地図もこの書物から(※大正の桜島噴火以降に描かれたものですね)。

地図にある居世神社は、こせと読みますが、本当はいせ(伊勢)だそうです。巨勢から取ったと言う説もありますが。安徳天皇をお祀りしていることを大っぴらに出来ないので、欽明天皇を祀っていることにしているらしい。

で、安徳天皇は生きていて、この26人が連れ出して、この地にお連れし、亡くなった後に居世神社を墓所としたって話なんですが…うーん。安徳天皇は生きていた説は源義経は生きていた説とか、明智光秀は天海上人だった説と同じくらい、なんだかなってのはありますよねっっ 青森のキリストさんの墓ではないけれど、あちこちに安徳天皇の墓はあったりするしっっ まあ、シンボルであり、故郷を無くし、追われた一門にとっての心の拠り所だったのかなあ。

そして、祖父の代には北上して国分市(現霧島市)に移住せざるを得なかったので、祖父の生家・先祖が流れ着いてから住んでいた、代々の家屋敷とか私は知らないのだけど…平家と言うのは母系で大家族主義。一つの家に親戚一同でまるまる住んでたりしたそう。なんか南アジアみたいだ。

ちなみに祖父の代で移住せざるを得なかったのは、祖父は次男だったんですが、長男と叔母という人が祖父の父が亡くなった後に結託して、家屋敷土地を勝手に売ってしまい、そのお金を持ち逃げしたそうです(大阪に逃げたらしい)。てなわけで、無一文になって追い出されることになり、リヤカーに家財道具とかあれやこれや詰めるだけ積んで、北上したと。そんで、空き地に家を建てて住むことになりました。その時に親族一同バラバラになったんですよね。祖父は次男だったのに、突然家長の座も押し付けられたりなんかして(家長が親族の面倒を見るってのが、なんか士族の習わしらしく)。

ある日、家長を押し付けられ、親族全員の生活をその背中に背負わさせたあげく、無一文になって家屋敷無くして流浪して…世帯持って落ち着いたと思ったら戦争に生かされて、シベリアで4年間もただ働きして寒い思いをさせられた、重彦じぃじって、マジ波乱万丈だぜい。

祖父は大工でしたが、家の造りはやはり武家屋敷でしたね。武家屋敷ってのは玄関が3つもあったりする。主人と長男と来客が利用する玄関、母親や次男以下の兄弟姉妹、家族が使用する玄関、そして使用人のための玄関である勝手口。農家の家とは間取り、作りがまったく違うんですよ。あと、ちゃぶ台ではなく、一人ひとりお膳で食べる。自分の子供にも孫にも、絶対「さん」付け。呼び捨てにはしないんですね。長男と長女を特別扱いするけれど、そこはそれ、農家の長男教とは一味違います。祖父母の代までそれが守られてたりしたのは、なんか不思議でした。父方は農家でしたから、そういうの無かったし。

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うん。うちのはもともと、この図柄だったみたい。それがいつの間にか、どう見ても「蛾」なデザインになってしまったのは何故? モスラ好きだから、いいですけどね。うん。モスラにしようよ、どうせなら。可愛いし。

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どうしてこうなった?

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単なる平野水軍なら、平家に組していただけで血筋は関係ないという話になる。けれど、平野水軍に同行していた、外戚の人たちであるならば?とも。

でも、まあ850年も前の祖先なんて、赤の他人も同様。血とかDNAなんて辿り様もない気がしますでね。けれども、26人は26人の子孫とだけ結婚を繰り返し、外の血を入れるのを嫌って、避けまくったらしいっっ汗 それってどーよと思ったりする。かなり濃いですし。結束は固かったとのことですが…それって閉鎖的で排他的だし、近親婚じゃーん(ハプスプルク家の顎状態)。

そして平家は桓武天皇の子孫からの枝分かれだけれども、桓武天皇の曽祖父は天智天皇なのよね。理由があって、こやつ苦手ですww  だからすでに血は関係なくても、ルーツ辿れることには不服があったりしますね。文句言ってもしょうがないけど。

なるほど、広島は宮島に行った際、無料奉仕させられた理由。あの大群のむさいオッサンたちは水軍だったかーと改めて。いやさ、そんなことはどうでもいいが、賃金は払ってんかー! マジで。先祖だったら、子孫の生活の面倒ももうちょっと見てよ! 手伝ってよ!…と思ったりするっっ汗

母方はずっと貧乏なんだよ! みんなお金に苦労しているんだからww

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そうですね。

京都の家屋敷を焼かれ、追われて、西へ南へと放浪して、永住の地と思ったところを昭和になってから追い出されて…祖父が建てた家もまた20年前に追い出されて、再びの一家離散になって。そんなんで墓とか、もう守ったりとかは出来ず。そうやって人はあっちこっち移動していくのだなーと思ったりもする(ゲルマン人の大移動)。

私も引っ越しは多いですが…。いい加減、一か所に落ち着きたいなあ。そして私は京都より奈良が好き。

個の魂としては、血縁とかそんなん関係ねー!ですけど、こういうルーツを辿ったり考えるのもアイデンティティだったりしますよね。人の歴史ってこうやって紡がれ、続いているのだと…はい。


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