見出し画像

花は根に鳥は古巣に

一度理解したつもりのことでも、改めて読み(聞き)返してみたり、その意味に触れてみると、当時は気づけなかった様々な発見や新しい感じ方に出合えるものです。琴線に触れるところ、響くところが、一度目とは違うといいましょうか。そんな風に毎日毎日、日々の発見があります。ありふれた日常を過ごしているようでも、繰り返しの何の変哲もない平凡さの中にも、新鮮さを感じられるのは豊かなことだなあ、としみじみ思ったりします。

過去を振り返ると色んなことがあったなあ、今となっては夢のようだと思うことでも確かにその瞬間はあったのだと、そのような時間を過ごしたのは事実で、怒りも苦しみも喜びも楽しみも、辛かったことも悲しかったこともすべて自分の人生の歴史の1ページとして、身となり栄養となり、「私」という人物を形作ってきてくれたのだとその一つひとつの出来事に想いを馳せずにはいられません。

画像1

私はいわゆる電波系の仕事、世間から言わせるとスピリチュアルかつオカルトよりの仕事をしているわけですが、今となってはその手の書籍は読みません。理由としては必要性を感じないから。まあ、印字された書物自体を読むことがほぼ不可能な視力なので、それは当然と言えばそう。このような目になってしまう前にたくさんの書物を読めたのは幸せなことだと思うし、今は無料視聴できる動画(YouTube等)があるから、ありがたいことに耳だけで情報を頂けることも可能です。

完全にシャットアウトしているわけではないけど、どれもこれも言い回しが異なるだけで、結局は一つの知識、同じことを別の角度から説明しているか、曲解しているかのどちらかなので。それを聞いたときに「ああ、こういう解釈の仕方、説明の仕方もあるのだな」と感心させて頂いたりはしますが。それに必要な情報なら、その時のタイミングで嫌でも耳に入ってくるのだろうと他力本願だったりもしてww

最近あらためて聞き返しているのは、斎藤一人さんの動画(講演会の講和)です。ありがたいことにUPして下さる方がいるから、出席しなくてもお話を聞くことができる。一人さんのお話はいつも絶妙なタイミングで、様々な答えとヒントを与えて下さる。一人さんがお話している内容は、結局のところ、ダスカロスが体系立ててくれた霊的真理と根本が同じで、あの難解なグノーシス思想(カバラ)をものすごく初心者向けに解りやすく、日本人向けに説明して下さっているのね。

それはそれとして、ここ一年位はさっぱり遠ざかっていたのだけれども、先日に再びおススメに出てきたこともあって、クリックしたならば、「ああ、これか」って、今の私にピッタリで必要だと思う答えが拾えたりする。

画像2

昨日たまたま聞いたのは「コンプレックス」の話。親からの刷り込み、植え付けられた負の遺産。そうだな、これがあるから、私のスピリチュアル・ナルシズム、エゴイズムが暴走するのだな、と。コンプレックスがあるから、承認欲求も生まれるわけです。つまりはコンプレックスはナルシズムとプライドといったエゴイズムの温床、立派な苗床というわけで。

私は長年、自分の霊的な資質(個性)がずっと受け入れられなかった。そこが自信のなさにも通じていて、自分が視えている世界や捉えられることの事象に対して懐疑的で、そこに価値を見出すことが出来なかった。同時に他人の役に立つことが出来ない自分を責めてもいた。自分らしくあることは、ありのままの自分を受け入れることでもあるのだけど、自分らしくあろうと思ったならば、ありのままに自分が視ているものや感じているものを受け入れてそれをそのまま人にも伝えてしまうことだったりする。

だが、そうすると弊害の方が大きいというか、周囲の人を傷つけたり、不愉快な想いをさせることになってしまうことの方が多くなる。だから、視えないものが視えること、他人が感じられないことを感じられることは私にとって苦痛以外のナニモノでもなく、人生にかけられた呪いのようなものでもあり、コンプレックスの根源だった。

画像3

「あなたの隣に、怒りに満ちた人の顔があってあなたを睨んでるよ」

誰もそんなことは言われたくないし、言われた人は得てして気分を悪くするものだ。まぁ、伝えるにしても、人としての経験値が足りなさ過ぎて、相手に対する思いやりや配慮に欠け過ぎたせいであるが。

ようするに、上から目線の生意気な物言いをするクソガキだったわけです。そして困ったもので、どのように他者に伝えるか、自分の個性との上手な付き合い方、この能力の賢い利用方法(トリセツ)を知らないまま、クソガキの状態のままで大人になってしまった。だからと言って、それを機能不全家族に育ち、虐待により罪悪感と厭世観を植え付けられたことのせいにしていては、過去に捕らわれた囚人のままで、いつまでも光のある場所に行くことは出来ない。成長することを選ぶならば、すべては自分の責任なのだから。なるほど、自らを成長させるのは、親でも人でもない。自分を育てるのは自分自身であり、起きている出来事にどのような意味を持たせるかの自己判断だけ。

他人の決断を批判するよりも、自分の決断を信じるほうが勇気の要ることだ     ~アッティラ王の言葉~

画像4

視えたものを視えたまま、知りえた情報を知りえたまま、そのままに思慮分別なく口にすることは、それが事実であれ空想であれ、よろしくない。人を裁く裁定者のように、「だから、あなたはこうなんだ」「あなたのここが悪いのだ」と、したり顔で物申す私は何と愚かであったろう。

数年前のことだった。とある知人が行っているセミナーが、一部のユーザー、消費者からすると"霊感商法"や"新興宗教"のような、危ういやり方で…イカサマとそう受け取られても仕方ないのではないか?? という、そんな曖昧なお商売のやり方をしていたりした。実は私もそれをかなり強引に誘われて付き合いの関係で断れずに受講することになったわけだが、そのいきさつに関してもひと悶着と言うか色々あったり、かなり憤慨させられる展開であった。その人に対して憤っている人、本人には言わずに陰で苦情や文句を言う人もいたりなんかして。

このままでは訴えられても仕方がないのではないか、とも思ったし。考えた挙句「こういうやり方ってどうよ」とキツク一言申すことにした。といっても、メールでのやり取りで。結果、相手に嫌われたというか怖がられてしまい、当然ながら疎遠にされたというか、実質的に縁も切られてしまった。

その人は悪気がある人ではない。困ったことに人を疑うことを知らない善人なお坊ちゃまで、世間知らずと言えばそうだった。私より年上で妻も子もいる人なわけだが。精神的な耐久性が弱いというか、メンタルがとても脆い人だった。たぶん挫折を知らず、良い人ばかりに囲まれて育ったのだろう。注意や率直な指摘をダイレクトに批判や非難として受けとり、自分を傷つけてしまうものから逃避して心を閉ざしてしまう人だった。

50過ぎてそれってどうなのとは思うけれど…妻子がいるのに、守るべき人がいる立場になってまで、万年青年を通り越してそれでは「お子様か!!」とも思うけど、年を取ったことや妻子がいることなど、それはその人の精神年齢を保証するものではないのが事実。

画像7

さて、そんなことがあってしばらく経ってから、私は家で転寝をしていた。すると、急に空気が変わり、とある方が私の耳に囁きかけてきた。

「大切なことはね…直接、相手の顔を見て、伝えないといけないんだよ」

その方が生きていた時、私はその方に会ったことがなかった。写真は見たことはあるし、声だけならテープやCDの音源で知っている。その方の話もたくさん聞いてる。生前のその方を知っている人を何人か知っているからだ。未亡人たる奥様にもお会いしたことはある。そして、私がお説教というかキツイ物言いの忠告をした、前述の相手はその方に可愛がられていた弟子みたいな人。そのセミナーが行われた部屋は、その方が気に入っていた、仲間が集う場所。知る人ぞ知る、その道の大家であった人だから。

ホンモノかニセモノか、というよりも、善き存在か悪しき存在か、というのを見分ける方法。その存在が来たと思った瞬間的に空気が何とも心地よい軽さを醸し出すこと、とてつもなく良い香りがすること、そして全身の緊張が解けて一瞬でリラックスし、まるで点滴一本を打たれたかのように疲れが無くなってしまい、100%パワーチャージされてしまうこと。それは本当にあっという間に、一瞬の出来事で1秒もかからない。残念ながら、そんなに頻繁に体験できることではなくて、人生のうちでも数えるほどの経験になるが。

また、それが起きた後には、とにかく瞬時に「理解」させられてしまうのである。たった一言で…それだけで、「ああ、そうだな」と妙に納得させられてしまう説得力がある。そこには「お叱り」はなく、一方的に欠点や至らない点を「責める」言葉の刃もない。けれど、頑なになった頭と心に、違和感や抵抗ひとつなくふわっと吸収されて溶けていく、何とも言えない優しさがある。指摘であるのにも関わらず、叱られる時のバツの悪さとか、嫌みな響きとか痛みやら一切の不快感が存在しないのだ。

そこが多分、違いなのだと思う。高次の存在と言う言い方は好きではないので、格の高い存在であるが故の、そうでないものとの違いと言うことにしておこう。

画像6

そう。私の言葉には愛が無かった。思いやりも欠けていた。相手がどういう人物でどのように他者(私)の言葉を受け取る人かどうか、そうした配慮や考えがまったく足りてなかった。相手の経験値の低さや思慮の浅さからの誤った方向性やお商売のやり方を正そうとするならば、もっと言葉を選ぶべきだったし、伝え方というか、相手に「何がいけないのか」を気づいてもらうためのやり方はもっと別の方法があったはずなのだ。

けれど、私は自分の正しさをいかにも証明するといわずもがな態度で、相手をジャッジし、相手の悪いところをあげつらうだけだった。相手を遣り込めるようにその非を暴き、かくあるべきなどの講釈をのたまうだけだった。なんて不遜で愚かであったろう。

メールというのは、会話ではない。一方的にこちらの想いを伝えるには効果的だが、単なる文章…文字の羅列というのは、相手の心理状態によって解釈されるもの。否定的に取られる可能性の方を考えるべきだった。とくに批判的な内容なら尚更。体温の通った言葉で伝えることの大切さ、たぶんそれを教えたくて、その方はあの世からメッセージを伝えて下さったのだ。

友人の師匠とは言え、生前に面識のない私にそのことを教えて下さって、とにかく感謝しかない。

「ああ、Y先生なら、言いそうなセリフだわね」

とは、Y先生を知る友人のセリフ。

言葉は本当に難しい。年を重ねても、失敗をたくさんして経験を積んでも、それでも難しい。毎日が勉強で、まだまだ発展途上の未熟者だと己を恥ずかしくも思う。他人には偉そうに講釈を垂れて、あーだこーだと色々物申す癖に、私自身は半人前のままだ。あと何回人生を生きれば、成長できるのだろうか。愛ある言葉を使いこなせるようになるのだろうか。

画像7

高校生だった頃、私は占い師というあだ名をつけられ、クラスメイトの相談に乗ることがたまにあったりした。ほとんどが女子のコイバナだったのであるが、たまに男子からの相談も受けることもあった。しかし、とある男子の相談は私の手にあまるものとも言えた。真実を告げることもそれを避けることも、彼が大切にしている友情や人間関係を破綻させる結果となりえるものだったから。どう伝えたものか…ものすごく悩んだし、今もその決断が正しかったのかどうか分からない。何しろ当時の私はまだ10代で今よりも人としての経験値も浅かった。

見たもの、知りえたことをそのまま伝えることはたやすい。だが情報を受け取るのは生身の人間だ。受け取るべき相手のことを考えて、その人の理解力や心の耐久性や置かれた現実を考えた上で、情報というのは伝えなければならない。ダイレクトに伝えればいいというものではないのだ。どんな情報も伝え方というものがある。真実を伝えることがいつも正しいわけではない。真実が正義ということもない。

想いをどんな言葉に置き換えるか、どのように伝えるかはもっとも大事なことだ。私はそのことに気づいて理解するまで、とてつもない時間と年月を要した気がする。今更ながらのスタートライン。

視えない世界からの情報を受け取って、想いを感じ取り、様々なものを読み取って翻訳・解釈して伝えるのが私の生業の一部でもあるが、一番肝心な伝え方…ここが本当に出来ていなかったなあ、と。

一人さんのお話を聞いて、改めて当時のことを振り返り、その意味をまだ理解出来ていなかったことに気づかされる。数年前にアドバイス頂いているのに、自分は未だに出来ていないではないかと。相変わらず何もわからないままでいるなあ…と、自分にがっかりさせられると同時に。

これから続けていく中で、少しは上手くなっていくのだろうか、このことに気づけたからにはもう少し上手くやれるようになるのだろうか。それは解らないけども。心がけていけば身に着く日もいつかはあるのであろう。なるべく悪い癖やこれまで身に着いてしまった良ろしくない言葉の習慣が顔を覗かせないように、十二分に意識して気を付けなければなるまい。

画像8

はじめに言葉があった
語られた言葉があった

それからずっとおくれて 
書かれた言葉が現れた

心の通じ合いは 言葉をよりどころにしている
言葉がなければ進歩はないだろう

本書における言葉は金の糸である

人間の始まりから今日に至るまでの物語を
織り続けている金の糸である・・・・

by ベティ・シャイン

画像9



もし、こちらの記事を読んで頂いて、面白かった、参考になった…とそう思って下さったり、サポート下さいましたならば、心から嬉しく思います💛