『死』というトラウマ(前半)
この仕事を通して、
『過去』の出来事が、
いま現在のその人の行動体系や思念に『観念』という縛りをもたらし、
ことに恐怖から来る反応を、
無意識的に生み出していることを何度となく思い知らされる。
人は過去の出来事を通し、
いま目の前にある事象を価値判断し、それに意味づけしている。
ようするに人は過去の出来事に支配されて続けている。
好むと好まざるとに関わらず。
覚えていようがなかろうが・・・
様々な過去の出来事が、その人の心の影となり重荷となり、
トラウマのような心的反応、拒絶反応を生み出しているけれど、
挫折した経験や哀しみや苦しみの記憶もさることながら、
それに並んで、多く人を苦しめるトラウマとなっているのが、
「死の記憶」である。
自らの人生がある日突然終止符を打つ「死」という現象に、
人は逃れることの出来ない『恐怖』を植えつけられる。
それは『生』への執着へのなせる業なのか、
愛する人との別離に対する哀しみに起因するものなのか、
すべてを失い、自らの存在が無に帰することへの畏怖であるのか・・・
理由は人それぞれ、様々であろう。
自分のことで言えば、
歩道橋も渡れないような高所恐怖症で、
とくにそのようなところで他人に後ろに立たれることに、
とてつもないストレスと恐怖を感じていたものだった。
自分の写真や書いたものが死んだ後で、
他人に見られたらどうしよう・・・と考えてしまうクセもあり、
写真を残さないようにしたり、ある一定の期間が過ぎると
手紙やメールの文章、携帯の画像をマメに捨ててしまうクセもある。
畳の上に布団で寝ると、
下から刀で布団ごと貫かれてしまうのではないか、とか・・・
ベッドならベッドで、その下に誰か隠れてて、
やはり下から刀で刺されるのではという恐怖におののき、
そして、もしも外で事故などにあって死んだ場合、
みっともない衣類で死んで他人に見られたら恥だと・・・
みっともない姿で死にたくない、みっともない死体になってしまう
などという恐れが常につきまとっていた。
これらは、
私がもっとも信頼していた友から崖から突き落とされて死んだことや、
首切り役人がド下手だったがタメに、
せっかく身支度をきちんとして死に臨んだのに、
二度も失敗されて、ようやく首が落ちたときには
みっともない死体・・・になってしまった経験があったからだった。
そして、満月を見ると妙に目が離せなく、
それがやたら大きく見えて、ヘンな気持ちになるのは、
単なるルナティックなのではなくて、
愛し子を失くしたショックで、入水自殺をした日の記憶のよう。
(頭イカレちゃってたみたいですが)
その原因を思い出した今では、
恐怖は何とか取り除かれたけれども。
ああ、あとドザエモンになったときには、
醜くぶよぶよに膨れ上がった自分の姿がショックで、
なんていうか・・・
水に入ること、海はもう大丈夫になったけれども、
未だに顔をつけることは出来ないでいる。
(息継ぎをするとパニックになる)
息が出来ないというのは、苦しいを通り越して、
頭の中、体中が破裂、バクハツしそうで、
とにかく痛いとしかいいようがない。
生水と違って塩水は目が痛いし・・・
あと、長期的に毒を盛られ続けたり、
毒殺されたりしたことがあるので、煎じ薬が苦手だったり、
その時、毒殺してくれた人からの、
お土産だけはどうしても食べることができない(苦笑)
こんな風に、
その人生がどうであったか・・・よりも、
『死』の原風景のほうが印象的で、
『死に方』そのものがその人生の印象になっているものもある。
そこしか残っていないというか、何というか・・・
『死』への経緯ではなく、
『死』の状況が本人にショックとしてトラウマになる場合が。
(例のごとく、あくまで過去生があることを肯定し、
過去生であるという仮説のもとでのハナシなので。
根拠も立証もできないナンセンスな空想物語として
そのようにとってくれてもと思います)
病気でその人生の終わりを迎えられる「死」は幸いである。
まして、布団(ベッド)の上で、
誰かに看取られ、惜しまれつつの最期であるなら。
「生きた、愛した、書いた」のゲーテじゃないけれど、
後悔がなければ尚更ベター。
けれど、そうでない「死」は・・・なかなかそうはいかない。
瞬時に受け入れられる人もいるけれど、
心の準備が出来ていないので、
自らの「死」を自覚するにいたるまでの段階が必要になってくる。
自殺はおいておいて・・・。
人為的な事故死、災害による死、
最悪なのは、殺人による死。
戦争による死も、とても悲しいものだ。
拷問死など、長らくの肉体の苦悶の末の死はいたましい。
一口に「死」といっても、
その人生が終わる瞬間には、様々なドラマ、いきさつがある。
ずっと以前にいらしたクライアントさん。
男性に対して異常に恐怖心を抱くその人に触れたとき、
真っ暗な闇の山中、
追われながら逃げ回っている女性のビジョンが見えた。
恐怖に目を引きつらせ、体は傷だらけで。
詳細は書けないが、
彼女はとある連続殺人の犠牲者の一人になった人だった。
(日本じゃない。この事件のこの人だと推測できても断定はできない)
そりゃあ、花開くティーンのときに、
こんな無残な殺され方してたら、男性に対して心開けないはずだと・・・。
別の人では、
臨月の妊婦なのに嫁ぎ先でこきつかわれ、あげくお腹を蹴られて、
お腹の子供ともども亡くなった記憶を持つ人もいた。
失った子供、産んであげることができなかった命への思慕か、
その人のお腹の中にはまるで胎児のような形をした筋腫が出来ていた。
イアン・スティーブンソン博士の「前世を知る20人の子供」の中には、
大好物だった食べ物を食べ過ぎて死んでしまった人物が、
生まれ変わってからはその食べ物が大嫌いになって、
アレルギー反応を示すようになった事例が書かれていたが、
「食」による死も昔は多かったようである。
土砂崩れで亡くなった過去のある人。
その人は、暗闇が怖く、閉じ込められることに対して、
異常に警戒心を持っていた。
人為的に生き埋めにされたことのある人も、
やはり闇を怖がり、電気を消して寝ることができないといっていた。
関東大震災で亡くなった過去生を持つ人もいた。
倒壊した建物の下敷きになって、動けることができず、
そのまま煙と火にまかれて亡くなられた人。
こういう人は地震に対して、とても過敏だし、
建物の中で揺れにあったときの不安感はハンパない。
数年前の震災では、
現実として起きていることに対する恐怖だけでなく、
記憶の中に封印されていた災害と死の記憶・・・
かつて自分が遭遇した『恐怖』か呼び覚まされて、
再びトラウマたる、過去の亡霊に悩まされている人も少なくないようだ。
数年前に書いたものです。後半に続く