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飢えのトラウマと飢餓エレメンタル

お盆シーズンです。同時に施餓鬼法要(施食会)の時期でもある。※近くの護国寺では大施餓鬼会法要と言って、5月に行われているけど。

とは言うものの、お盆と言っても、都内では7月、その他は8月、一部地域は旧暦で9月上旬にお盆をやったりするのでややこしい。まあ、それは置いておいて。

施餓鬼とは、お盆の時期に行われることが多い仏教行事の一つです。
餓鬼(がき)とは、俗にいう生前の悪行によって亡者の世界に落とされた魂や無縁仏となっているような霊や魂の事を言い、常に飢えと乾きに苦しんでいるものを指します。
施餓鬼とは、そういう者たちにも食べ物や飲み物などの供物を施すことで餓鬼の供養を行う法要行事です。※下記サイトより引用 

ようするに、生前の悪さによって飢餓地獄に堕ちたものたちを供養するのが施餓鬼で、餓鬼とは本来そのような六道地獄に堕ちたものを指すのだけれども。今回お話するのは、そのような類のものでは無く、飢餓によって命を落としてしまった人々の食べ物に対する妄執やら、餓死の苦しみを宿したエレメンタルについてのこと。

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こんなフィギアがあることにビックリ!

日本に限ったことでは無いのですけど、有史以来、人は飢えと戦ってきました。「食べていくことだけで精一杯」と「食べるためだけに必死」と言う言葉があるように、お腹いっぱい食べることって人類にとっては長年の夢と言うか、何よりも勝ることだったのです。現代ではお金の心配のない暮らしが優先順位のNo.1だけど、戦後しばらくして皆の生活が向上するまでは、毎日三度のご飯が食べられる生活が何においても大事だったりしたわけです。昨今の飽食モノ余り、フードロスが社会問題化している現代人には考えられないことでしょうけれども。

現代人にリアルに影響を及ぼしているグループ・エレメンタル他者のエレメンタル(地縛霊的なもの)はせいぜい300年位前のもので、それ以前の古い時代のものはまぁ…残っているのもあることはあるけど、それはさほど多くなく(地味にじわじわ利いている程度で)。戦国時代や安土桃山時代、室町のものはだいぶ力無くして既に大人しくなっていて、今は江戸時代のものがまだ力持ってて元気かなって程度。

なので、江戸の四大飢饉の時のものとか、日常的にお腹いっぱいにご飯を食べることが出来なかった身分の人たちの「お腹空いた」「お腹いっぱいご飯が食べたい」というエレメンタル、そして太平洋戦争(戦中戦後)の時の食糧難に苦しんだ人々のエレメンタルがまだまだ影響力を持っていたりします。これらはグループ・エレメンタルとして、餓死者が多かった地域(土地)に存在していたりするし、転生して新たな人生を生きている人たちの現在によろしくない影響を与えていたりします(過去生のトラウマとして)。

でも、まあ戦国時代のものはもうさほど…と書きましたけれど、セッションにてクライアントさんのとある過去生で、籠城によって大量の餓死者を出してしまった出来事に触れることになったのだけど、それはまだ弱ってないというか、困ったことに健在でした(日本です)。供養しきれてないと言うのかな、はい。

私も餓死したことはあるけど(過去生ね)、自ら食を断って、半ば自殺したわけなので、同じには語れないのですが。色んな死に方ありますが、じわじわ来るというか、本当に辛くて苦しい死に方だと思います。トラウマになって当然ですよね。はい、食べたくて食べれないのと、死にたくて食べないのとではエライ違いですから。

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そして、そのように飢餓状態で亡くなった人の食べ物に対する妄執なんかを私なんかは「飢餓エレメンタル」って呼んでいたりします。

ようするに食べ物に対する執着心のことでもあるんだけど、これに取り憑かれてる人に関しては、「食いつくし系」の人とか、食べ物に意地汚い人なんかがまずその最たる例でしょうね。

過去生の飢えに対する、経験からのトラウマ…軽度なものであれば、単純にやたらと食べ物を備蓄する、傷んだ食べ物とかでも「もったいない」と言って捨てられないとか… 困ったことに冷蔵庫の中にこれでもかって食料品を詰めてしまいがちのオカンは多いですが。保存食とかにしても、とにかく食料が常に家に無いと不安になってしまう人とか、いますよね。それは多分、本能のなせる業というか、過去の記憶からの防御で恐怖に対しての埋め合わせ行為なんだと思います。

あと、食べ物がやたらたくさんある場所にいると落ち着く、安心する人っていますよね。女性に多かったりするけど。デパ地下とか…美味しそうな食べ物が並んでて楽しいとかだけでなくて、食べ物があることが精神安定剤になっていたり。それはやっぱり食べるものが無い(無くなってしまう)不安、明日食べるものがないという恐怖…そういう過去の記憶から来るものですよね。中には当人だけでなくて、ご先祖様の記憶と言うか、代々悩まされてきたこととして、その家のグループ・エレメンタル(集合無意識)として形成されているものからの影響も否めません。そんな風に私たちは常に飢えとの闘いを経験してきたと言うか、食べ物を確保することに悩まされてきたのです。食べることは生きることに直結するから、当然と言えますね。

そう言えば、「アンネの日記」の中に食べ物が手に入らなくて、腐ったレタスを茹でて食べたって記述がありました。そんな腐った食べ物であっても、食べるしかないって状況が、過去の人類史には多々あったわけですよ。

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まあ、腐った食べ物を食べる方がまだまし…という位には、禁忌的なことも過去には行われていたわけで。そして、それを責めることなんて出来ませんよね。ひかりごけ事件なんかもね。道徳も大切だけど、飢餓って言うのは、人をおかしくさせるものです。飢えの前には理性なんかふっとびます。「ひと」ではなくて、「動物」になってしまう瞬間なのだと思う。本能剥き出しになって、生きぬくことを最優先に考えてしまうわけだから。

現代は幸い、そういうことは無いわけだけども。はい、日本ではね。けれど、三食満足に食べられないでいる人たちが、そうした地域が世界にはまだまだたくさんあったりします。日本だって、つい最近ですもの。こんな風に食べ物が豊富にあるって状況は。高度成長期以降だから、ようやっと50年位か。

そのくせというのかなあ、ずいぶんと長い間、食べ物を得ること、食べることに対して困っていた歴史があると言うのに、そのわりには食べ物を大切にしていないのが、なんかなあってのはあります。

さてさて。

日本で、多くの人々がひもじい想いを抱えることになり、食べることに必死になった一番最近の「飢え」の記憶・経験は、やはり先の戦争とその戦後になりますね。だから、この時期飢餓エレメンタルが活性化します。一番最初に書いたように施餓鬼法要なんかもあるから、同時に供養されてもいるわけですが、それでも上手くそれに乗ることが出来る霊やエレメンタルばかりでは無くて、まだまだ残っているものもあったりするわけです。

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そうした存在からしたら、食べ物をお残ししてしまったり、腐らせたり余らせて捨ててしまっている現代の様相は信じられないといった感じで、贅沢というよりは罰当たりに写るのでしょう。そのたった一口さえあれば自分は死なずに済んだのにと、口惜しく恨めしくも想い、私たちの「食べ物を粗末にしてしまう行為」を理解出来ないのは当然のこと。それに対して怒りを覚えたり、憎々しく懲らしめてやりたいと思われてしまうのは仕方ないのかもしれません。ちょっと前の昭和では「お残しはいけません」的な文化がありましたが、昨今では「いただきます」「ご馳走様」と言った、食事前の挨拶や命を与えてくれる食べ物に感謝すると言う習慣も廃れつつあります。

私なんかも戦中戦後を経験した親に、食べ物が無くてお腹が空いて、爆撃機が飛行している最中では煮炊きも出来ないから(煙を出すと狙い撃ちされる)、生芋をかじって飢えをしのいでいたとか…シベリア抑留を経験した祖父に至ってはもっと大変な想いをしたとか(肝心の当人はシベリアで経験したことは口にしなかったので、ドラマや文献から察するに)…食べ物は大切にするようにと嫌というほど聞かされたことから、お残しに対しての罪悪感があり、お腹いっぱいでも頑張って食べる習慣がついたけど、さすがに年を取ったり食べれなくなったこの頃では、外食でも「ごめんなさい」と心の中で誤って、手を合わせつつ残してしまう。ご飯少な目でお願いしますと言うのを、ついつい言い忘れてしまうのですよね。面目ない。

でも、そんな時には口には出さないけど、陰膳として、「お残しで申し訳ないのですけれど、どうぞ私の代わりに頂いて下さい」と…それが必要な方に差し上げる。それだけはするようにしています。

毎日お腹いっぱいに好きなものを好きなだけ、好きなときに好きな量だけ食べられる幸福を噛み締めながら。

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そして、霊媒としてのサガと言うか(最近はお陰様であまりそのような機会は無くなったれども)、別の記事にも書いたように、たまに「彷徨える霊」たちの依り代となって、死後の心残りを叶える一環で、代わりにその人の好物を食べさせられたりすることがあったりします。

代わりと言うよりか身体を貸していると言った方が正しいかも知れませんが。「天婦羅が食べたい」「お刺身が食べたい」「おにぎりが食べたい」「ケーキが食べたい」みたいなものなら、まあ無難で良いのですけれど。タバコが吸いたい…もまあ、以前は吸ってた時代もあるから、叶えられなくもないけども…苦手な食材やアルコールに関しては備えるだけにさせて頂いて。この味ではない、母が作ってくれたあの味みたいな、味にうるさい指定に関してまでは応じられませぬw

まあ、身体を貸して食べることをせずとも、備えるだけで霊にしてもエレメンタルにしても、そこから味を取っていくことは出来るから、それでいいのですけどね。そこまでしなくてもいいのです。その必要はない。むしろ、身体を貸すなんてのは一歩間違えると憑依になってしまって危険なことだから、素人さんにとってはヤバイ状況ってことです。

はい、そうですね。

この時期と言うか…たまに、自分が食べたことのないものや、好きではない食べもの、嫌いなもの、普段は食べないものをふと食べたくなってしまう衝動に駆られたら、それは身体がその栄養素を欲している…という肉体都合からの可能性も否定は出来ませんけれど、もしかしたら、縁のある(先の戦中先祖で亡くなったご先祖様とか)誰かの想いを読み取ってしまっていたり、どこぞの飢餓エレメンタルを拾ってしまっているのかも知れません。いやさ、後者はやたらと食べてしまうので、満足するまで何日も居座られてしまうと、体重増加が困ったものですけれどね。一日もしくは一食で済むのなら、まあよしなことではあります。それも供養で陰徳、善哉になる。

でもまあ、食べ物を頂くとき…それは命の糧であると、自分を生かすために与えられたものであるという事に感謝すること…食べものを残さざるを得ない時や、冷蔵庫の中で腐らせてしまうなどダメにしてしまった時には、その食べ物さえあれば生きられた命が過去にあったこと、そして生きられる命が今もあること。その僅かな食べ物さえ手に入れられることが出来ない人がいることをどうか思い出して、そのことを忘れないで欲しいとも思うのです。


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