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至高体験について、それをどう説明するかというと、ちょっと難しい。

たぶん「ワンダーゾーン」という、その昔に日本テレビで放映されていた、
関口宏さん司会の番組での特集が、一番判りやすかったのだと思う。

※思考体験の回が無かったので臨死体験の回

片手間な説明になってしまうかも知れないけど、それを「経験」すると、天地がひっくり返ってしまうというか、価値観がガラッと変わってしまうというか…これまで経験したことのない、素晴らしい悦楽というか、ひたすら感動するしかない、なんともいえない不思議な気持ちというのか…
とにかく、人生が変わってしまう瞬間的な感動であり、すべてが満たされ、すべてのものを肯定的に考えることができ、人生を…生きてるって素晴らしいと感じられる、至福の歓びを味わえるエクスタシー的体験…としか。

うーん・・・こんなんで判るかしら??? すみません。ボキャブラリーが貧困なものでっっっ

こうした至高体験をきっかけに、天啓を得たとして芸術的な活動に打ち込んだり、悟りに似た境地に達して、出家するとか、それまでの人生を悔い改めて、他者のために生きるようになったり、しがらみから解放されて、ライフワークを見つける人も少なくないわけです。

そういえば、やはり至高体験を経験したことをきっかけに、霊能力が開花して、スピ系の仕事を始めるようになった人がいるのだけど、そういう意味では、臨死体験と共通のものがあるかも知れません。私の場合、臨死体験はしたこと、ありませんけれど。

ある人で、この至高体験をした日には、それは解脱と同じで、悟りを開いたも同じだから、人生はすべて上手く行くって、そんな風に思い込んでいる人もいますね。

でも残念ながら、それは違う。

至高体験は、それ自体が通過点でしかなく、次の段階に進む前のステップの一つにしか過ぎないのだから。

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自分は至高体験をしたという、その人に、
「至高体験したことないの?」と、聞かれたことがある。
話したくないというよりかは、説明するのが面倒くさいので、
「さあ?どうなんでしょうねぇ」と、適当にスルーしてしまった。

自分が体験したことよりもそれ以上のものはない、と思っている人に、主観的な個人体験を説明するのは難しいし、至高体験(不思議)自慢をしても始まらないというのはありました。

大人になってから出来無くなってしまった幽体離脱も、それはそれで、至高体験ほどまでは行かないけれど、とても心地の良い体験でした。
肉体というしがらみ、足枷から自由になって、肉体によって定められた「枠」から自己を拡大させる時の、あのなんとも言えない気持ちの良さ…好きな場所に思っただけで一瞬にして行ける、あの便利さ。

いやさ、あれは楽しさといったところか。

さて・・・・・・それ、を体験したのは、数十年前の夏。

友人たちと海水浴に行ったときのこと。場所は千葉の・・・勝浦の海(笑)たぶん、20歳のときだったかと。当時、彼氏とケンカ別れして、どよーんとしていた気分の私。

かなづちで泳げない私は、浮き輪の中に体をズボッと潜りこませ、泣きそうな気分のまま、ボッーと、プカプカ浮かんでいたり。

(若い頃って、アホだから、たかが恋愛されど恋愛で頭いっぱいいっぱいで、「もーやー! 死にたい」って考えるほど、その程度のことで絶望できたもので。そして…「人魚姫みたいに泡になって消えてしまいたい」なんて、少女趣味にナルシーなこと、このとき、考えてたり・・・
あー恥ずかしいヤツっっ)

波の穏やかな入り江、いちおう流されないように気をつけながら、頭の中は真っ白けというか、呆けたままで、上記のようにナルシーな自己憐憫に浸りながら、遠くをぼんやり眺めていたんですね。

すると・・・

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ある瞬間、自分を取り巻く世界が一瞬にして変わった、というのか、なんていいましょうか・・・それまで生きていて、味わったことのない、奇妙で不思議な感覚の中に放り出されたりなんかして。周りの雑踏は遠くに、周囲の人も見えなくなって・・・

まるで自分の体が溶け出して、「海」と一体になってしまったような感覚。

溶けた、というか、自分の体が無くなったわけではなく、
肥大したような、そんな感じ。

自分の体の中に、今海の中にいるすべての人がいて、この海岸や遠くの海にいる人々、すべてを感じられて、足は、その浜もだけれど、深海の海の底をも触れているような感覚。手は、近くで泳いでる人の背中にも、目には遠いものの、はしゃいでる子供たちの足にも、同時に触れている。

そして、沖のはるか向こうの船・・・その鉄の船が自分の上にある、その感覚まで。体の中を泳いでいる魚たちの動き、小さな魚、大きな魚たち。それぞれの動きや質量の違いまで判ったり。

あ~今、おしっこをした子供がいるナ、
あそこのカップル、水の中でまで、いちゃいちゃしてるなー

とかとか、なぜか判らないけど、伝わってくるし。

すべてを同時に一瞬で感じられて、把握できて、
なんともいえない、暖かくて、優しい気分があふれてきた。

ああ・・・
これが母なるガイア、地球とか、海そのものの気持ちなんだな、
なぜかそう思って、とても安らいだ、心地の良い気分になって、

そのまま、自分を広げて、海と溶けあっていたかったのだけれども…

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友人の呼ぶ声に、ハッと我に返って、それまで広がっていた「自分」が、しゅるしゅるっと、まるでコンパクトな自分の体に収まるような、そんな感覚とともに、一瞬にして、その状態は終わってしまいました。

気がつくと、静かだった音は、元の雑踏に戻り、
「あ、私、ここにいたんだ」と、浮き輪にお尻を突っ込んで浮いている、
ちょっと(かなり?)恥ずかしいカッコの自分の姿を自覚して、
改めて現実に引き戻されたというか。

どのくらい、その状態が続いていたのか・・・
でも、そんなに長い時間では無かったはず?

で、それまでウジウジびーびー泣きべそ状態で、どよーんとしていた気持ちは、気がつけばスッキリ。「あんな男のこたぁ、どうでもいいわ~!!」という幸せな気分。

友人たちは「一体どうしたんだ、お前?」というような、あきれ顔をしていたので、「心配したのに、バカヤロー!」と、内心思っていたに違いないw

だって、一言でいうなら

「カ・イ・カ・ン!」byセーラー服と機関銃

たったのですよ。

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気持ちがいいというか、何というか・・・

自分という人間の境界線が無くなって、自分が大きくなったような感覚は、
幽体離脱した時とかもそうですけれど、このときは、「海」と一つになったというか、自分が「海」そのものになったような感覚で、これはもう、例えようもないくらいの気持ちよさ。

エクスタシーって、これのことじゃなかろうか、って思いました。
悪いけど、〇〇〇なんか目じゃない。
あれ味わってしまったら、そっちなんてバカバカしい。

といいつつ、同じじゃないから、比較するものではないのですが。でも、それでも、これは至高体験とはまたちょっと違うもの。たぶん類似の体験といったところ、だと思います。

※ちなみにその後、どうでもいいわと思った相手ですが、なんだかんだ向こうから謝罪の連絡来たりしてww まぁ、元鞘ですね。

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もうひとつの体験は、それより数年後。
魔術のトレーニング、をしていた夜のこと。

やはり、自分という肉体の境界線が無くなって、一瞬にして自分が広がって、いやさ、「自分」というものが無くなっていく瞬間。

その場にあるテーブルも、自分が腰掛けている椅子も、部屋の中にある家具も、カーテンも、その場にあるものすべて、何もかもが一瞬にして自分の一部になって、部屋の壁も通り越して、空も天も、そのはるか遠くにある星も、床も通り抜けて、地面も、大地も、その下にあるマグマまで、自分は地球そのもの一部なんだと、地球に存在する、生あるもの、生なきもの、すべてとひとつになった感覚・・・ひとときというのかな。

たぶん、あれがワンネスになるってことなのかと。

あれはもう、なんとも言えない・・・言葉に例えようもない感覚なのです。

その時、行っていたトレーニングは、
そういうことが目的のものではなかったのですがね。

遠くの星の存在も、家の外の木に止まっている虫の命の鼓動も、羽をたたんで休んでいる鳥の心臓の音も、それらを包み込み、優しく見守っている木の息吹も、空気中に漂う雲の感覚も、闇の気配も、地球に降り注ぐ微細な月の光の粒子も・・・

すべて、を理解できる、感じられる瞬間…
何もかもが「自分の中」に「在る」
たぶん、あらゆることの「答え」も所有している瞬間。
解らないことは何一つなく、なにもかもに満ち足りている状態。

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思うに、あの瞬間を経験してしまったら、「あの時間の中」に還りたくて仕方なくなるのです。ひたすら、「あの感覚」を求めてしまう。あれ以上のもの、「快楽」「充足感」はないから。

ドラッグでトリップする人の感覚も、似ているのかも知れない。けど、私はそうしたものは使ったことないので、判らないし、比較は出来ません。

でも、ドラッグや肉体的な快楽なんかより、確実に良いものだと思います。

その後も、何度か、自分を広げて、他のものの意識の中に自分を溶け込ませてしまうことを何度か試みて、その感覚に浸ったりもしましたが、どうしても現実感覚に問題が出てきてしまうというか、現実社会に適応して生きるということをするとなると、いろいな意味で「ズレ」が出てきてしまうので、
やらなくなってしまいました。

そうしたら、いつの間にかできなくなっていたり(笑)

今でも瞑想をすると、時にはそれに「近い」感覚を味わうこともあるけど、
明らかに質の異なるものです。

で、今回書いたこと以外で、たぶんこれが「至高体験」なんだろう・・・・ということもありましたけれど、そこで得た体験は、ちょっと公の場では書きたくないので、類似の話を二点だけ、ここでは紹介しておきます。

ちなみに、上記のような自分を広げることを日常の習慣的にやっていた頃は、植物などと意識の交感をすることが非常に容易で、
「ああ、この感覚のことを、妖精や精霊と会話する」というように表現する人がいるのだな、と思いました。

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木は昼間は眠っていて、夜になると起きだすものもあるということ。花は昼間起きてることのほうが多いみたいですが。そして、満月の日には背伸びをするように、グンッと、触手のようなもの(もち目には見えないし、物質ではない)を伸ばして、月の光を浴びようとしていたり・・・

それと、木と木は、情報を伝え合うということも。

例えば、私が所有している植物たちは、私の情報を近隣の植物たちに伝えることができるんですね。私を知っている(住んでいる街やよく良く場所の)植物たちもそう。私が外出すると・・・近場にしても、遠方にしても、木と木が、ざわざわって、隣の木に、伝言リレーするんですよ。
で、結果的に、着いた場所に私の情報が伝わってたり。これには、びっくりさせられましたが・・・例えば都内から旅行で関西に行ったとしてもね。その土地の植物は、私のことを地元の植物たちから伝言されて、知っているわけです。

「何で、始めた来た場所なのに、アナタ私のこと知ってるのよー!」

なーんて。恐るべし、木の情報網・・・デシタ。

あ、今はもう話せません。でも、見られているんだなあと、つくづく。

この頃は、辛い時期でもありましたねぇ。なまじ、木と意識を交流させられると、木の悲しみや痛みまでが伝わってきて、情緒不安定になりました。
宅地開発で伐採されてしまう木の嘆きや土地の痛みなど、受け取ってしまい、全身で感じらることが出来てしまうわけですから。

木も判るんですよ、切られてしまうことが…しかも、数ヶ月も前から。

ある日、そのエリアの木たちが、皆一斉にシーンとなって、まるで御通夜かお葬式みたいに・・・暗く沈んだムードになって。そうすると、何ヶ月か経って、何処かの宅地の木が更地になるために全部伐採されて、という具合。

定期的に枝を刈られてしまう街路樹もそうです。切られる数週間前から、シクシク泣いている状態で、切られているときの痛みがこちらまで伝わってきてダメぽ。

するってーと、挙動不審で情緒不安定な人間になってしまう(笑)
日常生活に支障ありすぎ、です。

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なので、そういう状態でいないほうが、社会生活は健全ですけれど、木や植物たちの気持ちをわかってあげられた頃の自分が、たまーにちょっとだけ懐かしくも思ったり。そうすれば、今みたいに、植物を枯らし放題なこともないのではないかとかっっ

で、話は散々脱線しましたけれど、至高体験やワンネス体験に関していうならば、それを体験したことが、一つのゴールではないです。

これを体験したからって、自慢になることではなく、
経験があるからって、スゴイ人間というわけではないのですから。

もちろん、人生が変わるきっかけにはなるけれど、その人は、そのタイミングで起きることが必要だったから、このような体験をさせられたってだけなんですよね。

能力の証明としての「至高体験」ではないし、
特別な選ばれた人間だから、こういう体験をするわけじゃない。

ホントに「至高体験」も「ワンネス体験」も、ある段階に至る前の…
成長過程としての、一つの「通過点」でしかないんです。

道の途中で、「経験」するだけのこと。
その後には、またグーンと低いポジションを経験すること多々。
「これがそうだよ」って、「行くべきとこはここだよ」って、
その先にあるものを見させられただけのこと。

私たちがいるべき世界は、この現実社会で、
この物理的な現実で、表現して生きることが課題なんですから。

死んだらば・・・肉体を離れたならば、あんな感覚を毎日味わえるってことを「知った」だけです。(自殺したらならば絶対に味わえませんが)

イヤでも死ねば味わえる世界で感覚。生きている今は、肉体を持つがゆえの感覚を楽しむべきなのです。

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