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大洗の常世

「秀太!船を出すぞ!」
「おうよ!」

ロープを外し、船は沖合に出る。
アンコウこと安養寺あんようじ秀太しゅうたの家、安養寺家は漁師の家だ。
漁師の家元である父・富雄とみおに、秀太は付いていく形で一緒に漁に出ていた。
大洗の海は穏やかで静かだ。
富雄曰く、時にこの穏やかさが不気味に感じることがあるという。

「…何も起こらなきゃいいけどなぁ。」

富雄はそう言い、船を走らせる。
沖合の真ん中辺りまで走らせると、海上に船を留め、船から網を取り出す。

「秀太!ボケっとしてねぇで手伝え!」
「お、おう!」

暗い海に見惚れていた秀太は富雄の怒鳴り声にハッと我に帰り、父の作業を手伝う。

「よし、これで良いべ!」

網を設置し終えると、富雄は船を動かす。
一旦港に帰るようだ。

相変わらず周りは自分たちの船のエンジン音しか聞こえない。
秀太はこの静けさに一抹の不安を感じていた。
しばらく船を走らせていくと。

「…ん?」

秀太は違和感に気付いた。
ゴゴゴ…と地響きのような音が聞こえる。

「親父ぃ!なんか聞こえねぇ?」
「んあ?おめぇの空耳だろ!」
「…ちぇっ。」

再び耳を傾けるが、空耳ではない。
暗い海がさらに暗くなっている気がする。

「お、親父!な、何だありゃあー!!」

秀太は思わず絶叫する。

「んだよ、うっせぇべなぁ!……ひいぃぃ!!」

後ろを振り返った途端、富雄も青ざめた。

「親父ぃ!急げぇー!!」
「ひ、ひいぃぃーー!神様、お助け〜〜!!」

一際大きな影が安養寺親子の船を覆っていた。

秀太は常磐神社に駆け込む。

「御隠居様!御隠居様はいますかぁ!!」
「…何だ、アンコウ。騒がしいぞ。」

安積が厄介そうな不服そうな顔をする。

「か、覚さん!御隠居様は?」
「不在だ。斉昭様ならいらっしゃるが。」
「お願いです!斉昭さんにお話させてください!」

社殿の廊下を通り、社務所へ尋ねる。
そこに斉昭がいた。

「おう、安積か。どうした?」
「斉昭様。此奴が貴方に話をしたいそうで…対応願えますか。」
「ああ、もちろん。奥に通してやりなさい。」

安積は授与所の奥にある居間にアンコウを通す。
斉昭に頭を軽く下げると、安積は社務所から出て行った。
用事を済ませた斉昭はアンコウがいる居間に入り、向かい合うように座る。

「アンコウ、何があったんだ?」
「実は…。」

アンコウは斉昭に大洗の漁での出来事を話す。
父・富雄の話によると、漁師の間では頻繁に不可解な目に逢っているという。

「…なるほど。海原は古来から常世と繋がると言い伝えられている。怪異に遭うのも致し方なかろう。」

と、斉昭は淡々と返す。

「退治とかは出来ないんですか。」
「自然に宿る怪異は神と近いものだ。不用意に攻撃すれば、私も神として存在出来ぬものだよ。」

アンコウは何も解決にならないのかと感じ、不安が過ぎった。

「だが、防ぐことは出来る。今回の怪異は信仰心の薄さから暴走した結果だろう。きっと、お祀りも手入れも何もしてないのかもしれんな。」

斉昭がポツリとそう言うと、アンコウは顔を上げて、パッと目を輝かせる。

「アンコウ、私を海神の地へ案内してくれぬか。」
「はい!」

斉昭はアンコウと共に大洗に訪れる。
大洗の海は穏やかに波打っていた。
しかし、どこか陰気な空気を感じていた。

「…海が穢れている。」
「斉昭さん!こっちです!」

アンコウの声のもとへ斉昭は歩いて行く。
お魚市場は変わらず賑わっていた。
斉昭は港の近くにある安養寺家に立ち寄った。

「親父!連れて来たよ!」

アンコウが玄関からそう叫ぶと、一人の中年男性が出てくる。

「あぁ…烈公!」

アンコウの父・富雄は涙を浮かべて斉昭の姿に感激する。

「そう感傷的にならんでくれ…。気まずくなる。」
「いやはや、申し訳ない。お目にかかれると思ってなかったもんだから感動しちまって。うちのバカ息子がお世話になっております。ささ、お上がりください。」

富雄は涙を拭い、斉昭を居間に通す。

「おぉ、これはこれは…。」

部屋に落ち着くと、老夫婦が顔を出す。

「斉昭さん。うちの爺ちゃんと婆ちゃんです。」

典雄のりおとふゆみといった。
斉昭は富雄に先日の漁でのことを話す。

「ああ、あの一件ですか。最初、私は全く気付かなくて息子の秀太が気付いたんです。私は全く信じなかったんですけど、息子の顔からしてこりゃヤベェって感じて慌てて帰ったら親父に怒られて…。」

どうやら富雄は霊的なものに関しては否定的なようだ。
対して、祖父・典雄は迷信や都市伝説を信じやすいらしい。

「よく神様に加護のお願いをしとけとあれほど!」

典雄は苛ついた様子で声を荒げる。

「まあ、落ち着いてくだされ。怒っても自然の脅威の解決にはならん。富雄さんよ。」
「は、はい…。」
「神や霊を肯定するのも否定するのもどちらでも構わぬ。だが、彼らも生きとし生けるもの。冒涜してはならん。」
「は、はあ…。」

富雄はポカンとしていた。

「アンコウ。確かこの地には大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみことが祀られているな。」
「はい!磯前神社ですね。」
「富雄さんとそちらに来てくれ。私は先に行って祭神に挨拶してくる。」

斉昭はそう言い、安養寺の家から足早に去ってしまった。

「相変わらず行動がよく分からん人だなぁ…。」

アンコウは斉昭の行動の読めなさに少し困惑していた。

支度が整うと、アンコウと富雄は磯前神社に向かった。
境内に入ると、斉昭が待っていた。
斉昭は既に祭神に挨拶を済ませたようだ。

「む?富雄さん、どうかしたか。」

見ると、富雄の足取りが重そうだ。

「ここ来た途端、重苦しいんだが…。」
「親父!?」

斉昭が目を凝らすと富雄の周りには瘴気が漂っていた。

「ふむ…なるほど。どうやら、強い自我に反応した悪鬼が富雄さんに取り憑いてしまっているみたいだな。」

どうやら、悪鬼の持つ邪気によって他の怪異も引き寄せてしまっているらしい。
斉昭のその言葉にアンコウは茫然自失とした。

「な、斉昭さん!お、親父は…。」
「幸いにも境内に入って力が抑え込まれている。まだ大丈夫だ。」

オン・ビセイゼイ・ビセイゼイ・ビセイジャサンボリギャテイ・ソワカ

斉昭は薬師如来の真言を唱える。

「ぐおぉ…!」

富雄が苦しみ出す。

ノウマク・サマンダ・ボダナン・カカカ・ソタド・ソワカ 急急如律令

さらに地蔵菩薩の真言を唱え、印を結ぶ。
すると、富雄は崩れるように脱力する。
アンコウは富雄を咄嗟に支えた。

「さあ、今のうちに!社殿へ急げ!」
「は、はい!」

アンコウは富雄を抱えて社殿に駆け込んだ。

社殿の祭祀部屋には御神酒と盛り塩が置かれていた。

抑も般若心経と申し奉る御経は、文字の数は二百六十余文字にして天台経七十巻、毘沙門経六十巻、阿含経、華厳経、方等、般若、法華経等一切経より選び出されたる貴き御経なれば、神前にては宝の御経、仏前にては花の御経、況して家の為、人の為には祈祷の御経なれば声高々と読み上ぐれば上は梵天帝釈四大天王、日本国中大小神祇、諸天善神諸大眷属に至る迄、哀愍納受して我らの所願を成就せしめ給うべし謹んで読誦し奉る

斉昭は心経奉讃文を唱え。

ギャテイ・ギャテイ・ハラギャテイ・ハラソウギャテイ・ボヂ・ソワカ
オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン

心経と光明真言を唱える。

「人間の自我に取り憑いた悪鬼よ!出て行くがいい!」

ノウマク・サマンダボダナン・バン・バク・ソワカ 急急如律令

開敷華王如来の真言を唱え、印を結ぶ。

「グオオォォ!!」

富雄は獣のような低い唸り声をあげる。

「ひいぃ!!」

アンコウは恐怖のあまり腰を抜かす。

「アンコウ!何をしている!祭壇にある御神酒で親父さんを清めるのだ!」
「は、はいぃ…!」

アンコウは祭壇から御神酒を借り、富雄に振り掛けた。

天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄
天清浄とは天神八百万を清め奉る
地清浄とは地祇八百万を清め奉る
内外清浄とは家内一切守護神を清め奉る
六根清浄とは其身其体を清め奉る
極て汚も滞りなければ穢事は在じ
内外の瑞垣清浄と白す

斉昭がすぐに天地一切清浄祓を唱え、劍を振り回す。
すると、先ほどの不気味な唸り声が静まっていき、富雄も大人しくなった。

「な、斉昭さん…ど、どうなったんすか…。」

アンコウは腰を抜かしたまま固まっていた。

「親父さんに憑いていた悪鬼は祓われたよ。」

穏やかな顔でそう話す斉昭にアンコウはホッと胸を撫で下ろす。

「さあ、神々に礼と詫びを述べなさい。」
「は、はい。」

アンコウと富雄は斉昭と共に祝詞を唱え、頭を深く下げる。

「それから、しっかり御神酒をお返ししとくのだ。そうすれば、また其方たちをお守りすることを約束するだろう。海にも心が在る。それを忘れるではないぞ。」
「…はい。」

アンコウと富雄は斉昭の言葉に何度も頷いていた。

その後、アンコウは父・富雄を連れて磯前神社に再び訪れ、御神酒を祭壇にお供えし、祭神に挨拶を交わした。
あれから安養寺家は怪異に悩まされることは無くなり、活き活きと漁に出ているという。
安養寺家で水揚げされた魚たちは那珂湊のお魚市場にたくさん並べられるのであった。

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