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大人だからこそ「学ぶ」事をやめてはいけない

あくまで今日の本題とは違う話題ですが、お盆休みの間僕から見えているSNSでは随分と「命の差別」に関わる議論があちこちで繰り広げられていました。


こういう類の「炎上」と言われる話題にはあまり近づく事は普段ないんですが、件の動画については僕も福祉に携わっている人間なので、謝罪の謝罪動画までひと通りは拝見しました。


この騒動に関して僕は何かを議論する事はするつもりはなく、特にここでも私見を述べるつもりはありません。
あくまで起こっている事実を確認した、というだけの話です。


そこを踏まえて。


今回の騒動を受けて上げられたNPO法人 抱樸さんのnoteの中で取り上げられていた「学び」というものについての話が今日書きたい本題です。




引用させていただくとここの部分。

「学ぶ」と言うことは、自分を一旦切開し自分の闇を見つめることから始まります。
単なる知識の上塗りではなく自己批判を伴う営みだと考えています。本当の「学び」は知識を得ると言う事では全くなく自分のしてしまったこと、あり方を一旦否定することから始まると考えます。
それを棚上げにして「学ぶ」ことは出来ません。

一旦ひとりになり、自分を見つめて欲しいと思います。そして今回傷つけた人々の痛みを全身で感じてもらいたいと思います。「学び」とはそういう事だと考えています。
ですから、抱樸としては安易に「学び」の場所を提供し事柄を済ませることはしません。徹底的に自己批判していただき、厳しく自らと向かい合ってもらうための対話を重ねたいと考えています。




この文面の僕なりの解釈なんですが、これは僕ら「大人の学び」のあり方の定義として、表現は一見厳しくも見えますが、そうだな、と感じました。




僕らは大人になる過程の中である程度の知識を得ます。大学に行ったり、資格を取得したり実際の自分の仕事の中で得る経験やスキルなど。
これは多くの方がそうなんじゃないかと思うんですが、自分が必要に迫られる事柄についてまでは「学ぶ」ことをします。
その動機になっているものは「困るから」です。


学習という形であれ経験という形であれ自分が「困らないように」学ぶ、ということはします。
じゃあ自分の日常生活の中で困らなくなったら僕らは学ぶんでしょうか。


もしかしたら自分が日常生活の中でたちまち困らなくなったところで「学ぶ」ということを積極的には行わなくなる方が少なくないんじゃないかと思います。
そうして僕らはそれまでに得てきたもの、そしてその後やや受動的に知っていったことを自分の中で咀嚼しながらある程度自分の中で理解しながら生きているんじゃないかと。



でも世の中はずっと動いていて、新しいものも生まれていたり新しい考え方や捉え方も生まれています。
そしてそもそも僕ら自身が普段の生活や人生の中で触れる事がなかったようなことだって山ほどあります。
物事の概念も時代の変化によってちょっとずつ、あるいは大きく変わったりしています。


つまり毎分毎秒のように僕らはどんどん知らないことが増えていっている、ということなんです。
相対的に見ると理解していることや知識として知っていること、スキルとして活かせることは放っておくとどんどん減っています。


「知らない」ことや「分からない」ということへの学びの問題です。



そしてもうひとつ、この引用の中で一番僕の中で刺さったのが「自分のアップデートとしての学び」です。




経験やそれまでの学習などの中で価値観形成がなされていき、ある程度自分がそれまでに培ったもので世の中を生きていけるようになってくると、僕もそうですがどうしても「知らない」ことや「分からない」ことへの純粋な知的好奇心自体も減ってくるのかもしれません。
正確にいうと、生活や仕事の中で段々と自身の関心ごとや興味の範囲などが絞られてきて、もしくは限定されてしまい、その視野の中で生きていくようになるのかな、と思うんです。


よく僕はこのあたりの感覚を違和感として感じたりする事があるんですが、ずっと福祉の仕事しかしてきていなくて、自分の行動範囲的に今の社会のことを知り掴む機会にそんなに触れていない中で、利用者さんの支援をしていくときに、「社会に出たら○○だよ」とか「これを身につけておかないと社会の中で困るよ」みたいな話って一体何を根拠に言えるんだろう、と自分で思うんです。


僕はどれほど社会の中を知っているのか、分かっているのか、それを示せるだけの何を得ているのか。
もう少し踏み込んだ言い方をすると、それってただ自分の過去の経験から、しかも自分というフィルターを通して感じたほぼ主観や自分の価値観から出てきただけのものを、まるでよく知っているかのように言ってはいないか、というものです。



ただ知らない、というだけだったら「知ること」だったり「理解すること」が大事なのかもしれませんが、そこに絡んでくる自分の今までの経験や、そこから形成された価値観や自分のあり方、みたいなところって意外と自分でモニタリングすることって難しくって、意識していない中で起きてしまっているんじゃないか、というのが


自分の価値観や今までの経験というバイアスで知らないものや理解していないものを「だいたいこういうもんだろう」という風にやや断定的に自分の中で定義づけをして知った気になる、理解している気になること。
しかもそれが「自分の正義」として振りかざしている、ということ。


なんじゃないか、と思うんです。



引用文に沿って解釈すると、今までの自分が積み上げてきた価値観や経験、観念みたいなものをで凝り固まってしまっていないか向き合う、つまりそれが「一旦自分を切開し、自分の闇を見つめる」ということなんだと解釈しています。
そして本当に自分の思い方や感じ方、言動自体に「本当にそれでいいのか?」と自分自身を批判的(悪い意味ではなく)に疑問を呈して、もしくは自分自身の矛盾とか間違いがないかどうかモニタリングして、そこで「知らない」「理解していない」まま進めてしまったことや進めようとしていることに対してきちんと向き合って「知る」ことや「理解をする」ということに努める、というのが「自己批判を伴う営み」としての学びだよ、ということなんじゃないか、と考えました。



もちろんこれを全ての事柄に当てはめなきゃいけない、ということではないと思うんですが、もしかしたら僕らは大人になればなるほど、いろんなことを「知った」気になって、「理解している」気分になって、自分のあり方を棚上げしてしまうことが増えてくるんじゃないかな、と感じたんです。

そして実は自分のあり方、みたいなものが実は知識とかスキルの上塗りよりも大事で、そこにこそ僕らは大人としての「学び」を続けていかないといけないんじゃないか、と思います。


どんどん凝り固まっていく自分を無為に否定することではなく「アップデート」するためにモニタリングという名の自己批判をしながら内省していくことを続けていかなければ、いつしか僕自身も自分だけの狭い了見でものを見て判断し、凝り固まったり拗れたままの自己の正義を振りかざす時代錯誤になってしまうなぁ、ということを改めて考えさせられました。


ちょっと小難しい話だったんですが、今回のこれって、誰にでも起こりうる「自分とどのように向き合っているか」ということなんだろうな、と感じたので書かせてもらいました。

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