見出し画像

優しさの「深度」

福祉に携わっている人は優しい人。
もう何十万回とこすられてきた福祉のイメージじゃないでしょうか。
 
 
確かに困っている人の支援をするためにそれを生業としてるので、それは優しいのかも知れません。
よく打ち出されている福祉系のホームページとかポスターも笑顔で明るくて寄り添ってる感のある「優しい」イメージです。
 
 
20年くらい福祉に携わってきて思うのは、この「優しさ」は、ある意味で呪縛だな、ということです。
僕だけかも知れませんが、折に触れてこの「優しさ」って何なんだろう、ということを考えさせられます。
 
 
ちょっとこじれた考察かも知れませんが、自分なりに優しさ、というものについて少し考えてみました。
 
 
 
 
優しい、という言葉は難しいですよね。
何をもって優しいのか、なんて実は受け手側の受け止め方に委ねられているところが大きくて、伝え手側の優しさ、は伝わらなければ優しさではなくなってしまうので。
優しいの定義のイニシアチブは受け手がわに強くあるような気がしています。
 
 
それを前提にしてじゃあ「優しい」って一体何なんだろう、と思います。
 
 
僕は優しさには深度と向き(ベクトル)という軸があると思っています。
 
 
言葉触りや一見的な態度に表される優しい、は誰にでも受け止めやすくて誰にでも安らぎやすい優しさ、だと思います。
でも、どんな時もそうであることが本当に優しいのか?というと僕は少し疑問です。
笑顔で柔らかい物言いで、共感的で受容的な態度は、心に安心感がなくて、不安に苛まれていたり緊張で強張っている状態の人にとってはとても安心できる優しさだと思います。
 
 
今度は逆に「あなたのためを思うからこそ」と時に表出される厳しさに含有されている優しさってどうでしょうか?
人によってはグッと心に刺さるかも知れません。でも不安に苛まれていたり、緊張で強張っていたり、安心感がない人にとってこの優しさは伝わるのか、というともしかしたら伝わらない可能性の方が高そうですよね。
じゃあ優しくないのかというと、汎用性には乏しいかも知れませんが、これも優しさのひとつの表れではあると思います。
 
 
ちょっと極端な対比をしましたが、要は誰にでも伝わりやすい柔和さをイメージとした優しさと、誰にでも伝わるわけじゃないけれど、特定の場面だったり、特定の信頼関係のもとでこそ伝導する「厳しさ」に内包されている優しさという風に、優しいには深度があると思うんです。
深度、というのは伝える相手への踏み込み度合いとか相手との関係性に比例するものなのかな、という意味合いです。
 
 
相手に踏み込めば踏み込むほど、柔和な優しさが仇になってしまう場面を共有することはあると思います。向き合わないといけない、乗り越えないといけない、選ばないといけない、決めないといけない。
そんな場面では、場合によっては厳しさの部分をきちんと相手に表出することが動機付けになったりきっかけになったり気づきになったりすることも当然あると思うので、それって少し奥の深い優しさだと考えます。
 
 
 
さてそれに対して向き(ベクトル)というのは何か、というとその優しさはいったい誰に向けているの?という話です。

 
分かりやすく言うと、伝える側がその優しさを「全振りで相手に向けているのか」「自分に向けているのか」という軸です。これがちょっと僕のこじれた見方なんですが。
 
 
今まで多くの利用者さんと自分が関わってきたり、マネジャーとしていろんなスタッフが利用者さんと関わってきている様子を見てきたり、当然普段の生活の中でも目にする優しさの表出を考えたときに感じたことです。
 
 
「相手に嫌われたくないから」する優しい態度、というものがあるように思えます。あまりきついことを言ってしまうと相手に嫌われるんじゃないか、拒絶されるんじゃないか、と思うことにより踏み込みきれず一見すると表出は笑顔で柔らかい言葉で、寄り添った態度は同じなんですが、その時の優しさのベクトルは「相手」じゃなくて「自分」に向いているような気がします。
自己防衛を含んだものです。
 
 
「これが自分の優しさなんだ」とばかりにする「あなたのためを思うからこそ」という前提のもとになされる厳しい表出。いつもいつも柔らかくばかり言ってても受け止めてても本人は成長しないんだ、世間の厳しさをきちんと伝えることこそが本当の優しさなんだ、という感じかも知れませんが、この時の優しさのベクトルも「相手」じゃなくて「自分」に向いているような気がします。
主観的な正義を基準としている感じです。
 
 
 
もちろんそれがいいとか悪い、という議論をこの記事でしようというものではないのですが、特に僕らは人の人生とか生活の部分に触れている仕事なので、一口に優しいと言ってもいろんな表出の仕方があってもいいような気がするんです。
 
 
状況に応じて関係性に応じて、相手の成長を促すため、相手の気づきを生むため、安心してもらうため、不安を和らげるため、人生を前に進めるため、何かを克服するため、など。
 
 
ただ、ちょっと気にかけておいた方がいいのは、その優しいは一体誰に向いているものなのか、ということ。
 
 
完全に自己を守るためだったり、自分の正当性を誇示するためだったり、自分の不利益を避けるためだったり逆に自分の利益に繋げるためだったりが強すぎると、どんな表出をしていてもそれは優しさでも何でもないような気はします。
 
 
一体何が優しいなのか、ということの基準を考えるときに、「深度」と「向き」がどこにあるのか、ということを意識してみると、優しさの精度は上がるのかな、と思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?