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女として生きていくということ

今日はずっと、ずーーーーっと考えていたことを徒然なるままに書いて行こうと思います。

「女の子でしょ」が納得できなかった

私は3人兄弟の末っ子で、待望の「女の子」でした。
「女の子でしょ」という理由で突きつけられる様々な家事のお手伝いや我慢がどうしても納得できなかった。
「女の子」という理由でかわいがってもらえたこともある。得したこともある。

でも、同じ人間なのに、兄とは何が違うのか?性別が違うだけで、なぜこんなにも差があるのか。。。?

工業高校に入学した私は、「女の子なのに工業?」と言われた。
「男目当てだ」と同性の子に噂話をされていたこともある。
女の子が工業を勉強して何がいけないのか、学びたい道を選択しただけ、何が悪いのか?私にはわからなかった。

大学生で「女性学」を勉強し「名誉の殺人※1」について学んだときは
なぜこんなにも女性が自由でないのか?
ということに悲しい気持ちを持ったこともある。

不平等だと思ったことも多い。「女性活躍推進」について大賛成だった。

昨年からジェンダーにまつわる仕事をしている。
「性」にまつわるさまざまなことを学びながら仕事をしている。
その中で「女として生きるとは?」について、これまで以上に深く考えるようになった。

最近思うこと、それは
性別役割分業は、
生物学的性差に対して、適切な役割分担なのかもしれない ということ。

この考えに至ったのはフロムの「愛するということ」を読んだから。

母性愛→子と母はもともと体内で一体だったから無条件に愛せる
父性愛→条件付きの愛で社会性を教えるもの

なるほどと思った。

幼い子が「母を求める」のはもともと自分がいた安心安全な場所を
本能的に求めるからなのかもしれない。

0-3歳で母子分離の時間が長い場合、子どもは深く傷つき、その傷が大人になってからの行動にも影響を及ぼすとも言われている。

母親には母親にしかできないこと、
父親には父親にしかできないことがあるのだろう。

フロムはこの本の中で「現代の平等は一体ではなく同一を意味する」とも
書いている。

男性と女性はどんなに頑張っても同一にはならない。
きっと同じものは求めてはならないのかもしれない。


では、私は「女としてどう生きようか?」
30代 独身、今のところ結婚と出産の予定はない。

選択肢として、「結婚・出産をしない」という選択もある。
でも、かけがえのない大切な人を出会えた先に
「子どもが欲しい」と思う気持ちがないわけではない。

「子どもが欲しい」は大人のエゴでもあるからこそ、
子どもができた先に「子どもにとっての最善の選択」も必要なのだとも思う。それを考えると、「性別役割分業」を受け入れるのもありなのかもしれないと思っている。


型にはまらず、「愛するもののための最善の選択」をしながら生きる。

これが私の「女として生きる」答えなのかもしれません。

今の日本では多少は男尊女卑的な考え方も残ってはいるものの、
性差による生き方の選択肢の量は平等になってきているように思う。


だから、「自分への愛」「パートナーへの愛」「子どもへの愛」
それぞれの場面で「誰のための選択か」を考えて生き方を変えることができるのだと思う。その時々で考え方や価値観は変わっていいと思う。

どんな私も「私である」ことは変わらないから。


ここまで書いて、自分の心の大きな変化に気付いた。
これまでは「○○でなければならない」と型にこだわりすぎていた自分がいたけれど、今はその型にこだわらずに柔軟に変態しながら選択ができるようになったんだなと。


軽やかに、しなやかに、愛を持って生きていく

それがしあわせな生き方なのかもしれない。



※1 私が名誉の殺人について知ったきっかけの本はこちらです。
名誉の殺人に関心がある方はこちらをお読みいただくとよいかもしれません。
「生きながら火に焼かれて」
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4789722619/chickensoupwi-22/



最後までお読みいただき、ありがとうございます。 これからも、自分らしい表現を求めて 日々更新していきたいと思いますので、 応援していただけたら嬉しく思います。