自己覚知:経験至上主義への嫌悪について

「(私の経験は特殊だからあなたには私が言うことは)わからないと思います」という拒絶のジャブを向けられたとき、過去の自分をみているようでひどくイラつくのは、”経験至上主義”は”自らの行為を以て(自覚せずとも)社会に復讐すること”と相性が良いことを少しだけ知っているからであるように思う。

経験を外部化し相対化しようとつとめることは、経験至上主義から脱する術のひとつではあるけれども、その過程で自らの動力炉を挿げ替えねばならない/重要なパーツをいじらねばならないのだとしたならば、人によっては、それを成熟と呼ぶかもしれないだろうし、死んだも同然だと叫ぶのかもしれない。

ゆえに、「(私の経験は特殊だからあなたには私が言うことは)わからないと思います」という拒絶のジャブは、「自らの動力炉を挿げ替えねばならない/重要なパーツをいじらねばならないのだとしたならば、わたしは死んだも同然だ」という幻聴を(わたしに”だけ”)伴わせてしまう。

言い換えれば、拒絶のジャブは私にとっての「幼さ」のシンボルと化してしまっている。ゆえに、ジャブの打ち手に対し過去の幼さに溢れた自分を再現されたような気がしてイラつき、それを掻き消そうと目の前の相手の成熟を促そうと要らぬ関与をせんとする自分に気づき二重のイラつきを覚えるのだろうなと

経験に過剰な意味を与えてあげる必要などないのだけれど、”私のこの経験には大いなる意味が付与されている(そうでなければ理不尽だ)”というロジックが展開される(てしまう)とき、過剰な意味を未来から強奪しようとする意志が復讐性を帯びてしまう可能性が生じるように思う。

過剰な意味を未来から強奪しようとする意志が復讐性を帯びてしまう可能性を低減できる装置を獲得しながらしのぎつつ、現実に取り得る行為に対して多量すぎる意味を未来から強奪した結果バランスが取れなくなったとき、成熟に舵を切る分岐が来るようにも思う。

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